「最悪の中の最悪を考えなかった:福島原発事故の最大の原因」  西尾幹二著『国家の行方』より

おはようございます。
今日もどんよりとした鬱陶しい梅雨の空模様です。
7月5日ドクダミの花.JPG
最近みた篠原常一郎氏のYouTube:
#2020/07/02 『Fukushima 50』の真実、山岡鉄秀氏、福島県 原ぱつ
36,024 回視聴•2020/07/02

のなかで、篠原氏は福島原発事故のときに静止しているはずの「四号機が一番危険だった」というようなお話をされている箇所【9分過ぎ】があります。

これを聴いて、「確か そうだったなぁ」と当時のことを思い出しました。
最近読んだ西尾幹二先生の【国家の行方】のなかで、そのことを書いていることを思い出したので、次のようなコメントを書きました^L^:
sonmark5

当時から「殊に四号機の燃料は極めて生きがよく、いくら水を入れてもあっという間に蒸発しているらしい。しかも遮蔽するものは何もない。放射性物質は今後何年間も放出される可能性がある」西尾幹二先生2011年3月30日の期日【記述のマチガイ】がありますね。それより無政府状態だったことが問題でしょう><;

けさ起きてみると、こんなコメントが書かれていました:
注目の返信
亀亀仙女

西尾幹二先生は原子力の専門家でもなんでもなく専門外なのだからいい加減な話はしない方が良かったと思います。


これに対して【易爺】はこんなコメントを返しました^L^:
sonmark5

アナタは原子力発電の専門家でないから発言をするなと仰言るのですか?
いい加減なお話かどうかは産経新聞『正論』か『国家の行方』p271-p274を読んでみてください。


ほんとうはもう少し別のことを書くつもりでしたが、止めました^L^

◆そこで今日は、西尾幹二先生の『国家の行方』のなかの
「最悪の中の最悪を考えなかった
 ・・・福島原発事故の最大の原因・・・」
の部分を掲載します:
最悪の中の最悪を考えなかった
福島原発事故の最大の原因

         平成23(2011)年3月30日


原発事故下にあえぐ福島県の地域住民の方々、ならびに、原発の現場で日夜を問わず国の破綻を防いでくれている多くの勇敢な方々に、まず、心からの同情と感謝を申し述べたい。これから後は、いよいよ指導者たちが政治的勇気を見せる番ではないかと考える。

今度の福島第一原発の事故は、原子力技術そのものの故障ではなく、電源装置やポンプや付帯設備(計器類など)の津波による使用不能の事態が主因である。防止策として予〔あらかじ〕め小型発電機を設置しておくべきだったと批判する人がたが、福島では非常用ディーゼルが用意されていて、しかも、それがちゃんと動いたと聞く。しかしディーゼルを冷却するポンプが海側にあって流され、冷却できなかった。これがミスの始まりだったようだ。電源が壊れ、原子炉への注水機能がきかなくなった。Aの電源が壊れたらBの電源・・・C、Dと用意しておくほど、重大な予防措置が必
要なはずではないか。

 東北は津波のたえない地域である。設計者はそのことを当然知っていた。東京電力は今回の津波の規模は「想定外」だというが、責任ある当事者としては、これは言ってはいけない言葉だ。たしかに津波は予測不能な大ききだったが、2006年の国会で、共産党議員がチリ地震津波クラ
スでも引き波によって冷却用の海水の取水停止が炉心溶融に発展する可能性があるのではないか、と質問していた。二階俊博経産相(当時)は善処を約していたし、地元からも改善の要望書が出されていたのに、東電は具体的改善を行わなかった。

 同原発は原子炉によっては四十年たち、老朽化してもいたはずだ。東電が考え得るあらゆる改善の手を打っていた後なら、津波は「想定外」の規模だったと言っても許されたであろう。危険を予知し、警告する人がいても、意に介さず放置する。破局に至るまで問題を先送りする。これが、日本の指導層のいつもの怠惰、最悪の中の最悪を考えない思想的怠慢の姿である。福島原発事故の最大の原因はそこにあったのではないのか。


 作業員の不幸な被曝事故に耐えつつも日夜努力されている現場の復旧工事は、今や世界注視の的となり、国家の命運がかかっているといっても過言ではない。何としても復旧は果たされなければならない。二百三十キロの距離しかない首都東京の運命もここにかかっている。決死的作業はきっと実を結ぶに違いないと、国民は息を詰めて見守っているし、とりわけ同型炉を持つ世界各国は、「フクシマ」が日本の特殊事情によるものなのか、他国でも起こり得ることなのか、自国の未来を測っているが、日本にとっての問題の深刻さは、次の二点であると私は考える。


◆再度の原発事故を恐れている
 第一は、事故の最終処理の姿が見えないことである。原子炉は、簡単に解体することも廃炉にすることもできない存在である。そのために、青森県六ケ所村に再処理工場を作り、同県むつ市に中間貯蔵設備を準備している。燃料棒は四、五年冷却の必要があり、その後、容器に入れて貯蔵される。しかし、福島第一原発の燃料はすでに溶融し、かつ海水に浸っているので、いくら冷却してもこれを中間貯蔵設備に持っていくことはできないようだ。関係者にも未経験の事態が訪れているのである。

 殊に四号機の燃料は極めて生きがよく、いくら水を入れてもあっという間に蒸発しているらしい。しかも遮蔽するものは何もない。放射性物質は今後何年間も放出される可能性がある。長大で重い燃料棒を最後にチェルノブイリのようにコンクリートで永久封印して押さえ込むまでに、放射線出しっ放しの相手を何年水だけを頼りにあの場所で維持しなければならないのか。東電にも最終処理までのプロセスは分からないのだ。

 それに、周辺地域の土壌汚染は簡単には除染できない。何年間、立ち入り禁止になるのか、農業が再開できるのは何年後か、見通しは立っていない。当然、補償額は途方もない巨額となるだろう。

 問題の第二は、今後、わが国の原発からの撤退とエネルギー政策の抜本的立て直しは避け難く、原発を外国に売る産業政策ももう終わりである。原発は東電という企業の中でも厄介者扱いされ、一種の「鬼っ子」になるだろう。それでいて電力の三分の一を賄う原発を今すぐに止めるわけにいかず、熱意が冷めた中で、残された全国四十八基の原子炉を維持管理しなくてはならない。そうでなくても電力会社に危険防止の意志が乏しいことはすでに見た通りだ。国全体が「鬼つ子」に冷たくなれば、企業は安全のための予算をさらに渋って、人材配置にも熱意を失うだろう。私はこのような事態が招く再度の原発事故を最も恐れている。日本という国そのものが、完全に世界から見放される日である。

 手に負えぬ四十八個の「火の玉」をいやいやながら抱きかかえ、しかも上手に「火」を消していく責任は企業ではなく、国家の政治指導者の仕事でなくてはならない。

・・・『国家の行方』by 西尾幹二 p271-274・・・



ついでに専門家についても、こんな西尾先生のこんな記事がありましたので、時期的一番いいのではないかと想いUP致します:
国民から遊離した法律の世界
新しい現象への対処を考えよ
     平成8(1996)年4月18日  産経新聞『正論 by 西尾幹二』


世には素人の口出ししにくい専門的案件が多く、専門家に任せておけば安心と思っていると、とんでもない。住専やエイズ薬害のように、専門家が閉ざされた独善と非常識に走り、国民から遊離している。

専門的知性がこぞって常識から逸脱しているもう一つの例に、最近では法律の世界があげられる、と私は見ている。

すでに多方面から批判されているが、つくばの医師の妻子三人殺害事件で、二人の子供の殺害動機について、被告である父親の「母親を亡くし、父親が殺人者となった子供の将来を思った結果」という言い分をそのまま認めた判決文には、呆れてものがいえない。子殺しは父親の利己的動機の匂いがあり、判決は事実誤認の疑いがある、と言いたいだけではない。被告のこんな主張を認めてしまうと、今後、どんな尊属殺人も正当化される。「子供が殺人者となった父親の老後の不名誉を思った結果」、子供が自分の父親を殺害することも合理化される。

 沖縄女子小学生暴行事件で、米兵三人は最高懲役七年の実刑判決を受けた。またオウム裁判で、教団「防衛庁長官」の岐部哲也、教団「西信徒庁長官」の都沢和子に、建造物侵入罪、住居侵入罪で、懲役一年の実刑判決が言い渡された。これらは法曹関係者の間ではおおむね適法の範囲とされる。経験的にいうと、これでも量刑はやや重すぎるそうだ。もともと日本には女性や子供への性的暴行、虐待に対する重罪規定がないし、建造物侵入、住宅侵入ていどの初犯に対しては執行猶予付きが通例であるからだそうだ。上訴審でくつがえる可能性すらあると聞く。


 沖縄の事件が米国で裁かれれば最低三十年から最高四十年の刑になったろう、とロサンゼルス郡検事局の専門家は語っている。中国人の私の知人はオウム真理教の幹部は中国でならただちに銃殺刑に処せられるだろうと言っていた。オウムの幹部の共同責任、全体に関与した罪、犯罪を知っていた罪が問われないで、建造物侵入罪、住宅侵入罪などで裁かれるばかばかしさに、国民の大半はあきれている。

 沖縄の事件は今後婦女暴行罪の量刑の見直しにつながるのを期待している。しかしやっと破防法適用が決断されたオウム裁判に、たしかに今はこれ以上は望めまい(編集註/政府は決断したが公安審査委員会は適用を見送った)。内乱罪が適用されない限り、「集団の罪」は裁けないと聞く。どこまでも刑法の範囲で”個人の罪”を問うていくしかない。それは私のような素人にも分る。しかしオウムは一種の”小型ファシズム”であった。” 国家内国家”を画策した武装集団であった。二十一世紀にかけて、同じような破壊活動が手を替え品を替え立ち現われる可能性は十分にある。それに従来の刑法では対処できまい。今度は刑法の裏をかく新手が現われよう。この新しい政治現象に法的に新たにどう対処するかの議論ひとつ湧き起こらない法曹界の非現実性を私は問題にしているのである。

◆不十分な戦後憲法的解釈
 「政教分離」は日本以外では政治から宗教を守るだけではなく、宗教から政治を守るという一面もあり、これからの日本においても戦後憲法的な従来の解釈だけでは不十分だと、私は再三主張してきたが、仄聞する限りでは、世界からみて当然のこの常識も、内閣法制局のかたくなな抵抗に合って、戦後憲法的解釈に再び押し戻されているらしい。

 法律の世界ほど素人の口出しを拒んでいる高踏的★★★な、閉ざされた世界はない。敢えて最高度に排他的な世界だといってもいい。その必然性を私は理解していないわけでもない。法がぐらついては困るからだ。法はあらゆる恣意を超越し、現象の上に屹立〔きつりつ〕していなくてはならないからである。けれども、他面において、法は現実に有効に役立たなくてはなるまい。現実から遊離した法は危険でさえある。法律家が謙虚でなければならないのは、法の抽象性に対してよりむしろ、現実性に対してであると私は思う。ところが今の法律家たちは専門の名における閉ざされた独善集団で、非現実的、空想的、幻想的になっていないか。

 その一番いい例証は夫婦別姓問題である。裁判の判決で量刑を少しでも軽くするのが進歩的で、文明的だと思いこんでいる法曹界の風潮と、法制審議会のひとりよがりの独走ぶりは、表裏一体である。総理府のアンケートで国民の過半数が反対している民法改正を、仲間うちの身勝手な答申を口実に強行しようとしている法制審議会、並びに法務省は、個人主義を絶対善とするフランス革命以来の革命幻想★★★にとり愚かれているにすぎない。家庭というさいごの共同体をこわして、社会を個人というアトムに分解するのが文明の方向だと、単に盲目的に思いこんでいるだけである。

 男女どちらの姓を名乗るも自由だと現行の民法が定めているのだから、あえていま改正の必要はまったくない。改正は「事実婚」(いわゆる同棲)を確実にふやす。世間の目を憚って婚姻の正式届け出をしてきた義務感から解放されれば、人は格別メリットのない「法律婚」をしなくなる。離婚も簡単で、同棲をやめればよいだけで、犬や猫の生活と変わらなくなる。

 さらに、多くの人が言っているように、日本は集団的自衛権を保持しているが行使できないという、内閣法制局のばかばかしい硬直ぶりは、アジア情勢下で日本を危険にしている(編集註/平成二十六年、安倍内閣において一定の要件を満たした場合の集団的自衛権の行使容認を閣議決定。平成二十七年、平和安全法制が成立) 。今や法律家たちの孤立した独善が国民感情から遊離し、集団的非常識に走るのが時代特徴であることに、われわれは批判の目を向けるべきときではないか。


 【易爺】が最初のコメントでいいたかったのは最後の部分ですが、ここを突いてくるか???・・・ナンテ(笑)

国家の行方 - 西尾 幹二
国家の行方 - 西尾 幹二

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

驚いた

この記事へのコメント