きょうは伊藤博文が暗殺された日です・・神道“かんながらの道”

きょう10月26日は伊藤博文が殺害された日です。
明治42年【1909年】10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて安重根に暗殺された。享年69歳。

 暗殺者である安重根は 韓国では英雄としてまつりあげられているようですが、日本人から見ればただのテロリストで卑しむべき人物です。
 これは小生の管見になりますが、韓国人は安重根の「根」ではないが、根性が座っているというか・・・恨みの感情が非常に強い民族気質があるようです。おそらく地勢的なところから生まれた気質かも知れません。人は住む場所によって その性情におおきな影響をうけるのでしょう。

 朝鮮半島は北の大陸の帝国から圧迫侵略され、南の海から日本に脅かされ続けてきたので、現在のような根性の強い激しい感情の気質になったのではないでしょうか。

 四方が海に囲まれた能天気な日本人からみれば、賤しくて恥知らずの振る舞いにしか見えないことを平気でする不愉快な民族性をもっているように思います。・・・ニュースなどを観ていて韓国人の振る舞いに対して不愉快になることが非常に多いのが最近の小生の偽らざる心境です。同時に日本人もその傾向の人が増えているように思います。特に為政者に多いのはなげかわしいことです><;

 伊藤博文がこのハルピンを訪問する直前に『明治の易聖』といわれた高島嘉右衛門呑象が占った次のような占例があります:

■高島吝象の占例:伊藤博文のハルピン訪問を占う

明治42年〔1909年〕の伊藤博文が、ロシア蔵相と満州・韓国問題について話し合うためのハルピン訪問を前もって密かに占なったそうです:

得卦は艮爲山の九三です。

☶ ☶
☶ ☷
艮 剥

 体調が悪く床に臥していた高島吝象翁は、
見舞ってくれた伊藤博文に向かって
「気を付けて、お出でなせえ、易は艮爲山の九三でしたよ」
と言ってしまったのです。

 翁は出発に際して、あまり良くない占なので言わないつもりでしたが、言ってしまったそうです。

「ありがとう。其の背に艮〔とど〕まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ずか」
・・・伊藤は、この運命的な彖辞を軽く口ずさんで、嘉右衛門の床を去ったそうです。

 彼の著書『高島易断』のなかで、艮の九三について次のように書いています:

「止塞・開き難し。
 自ら事を設け意の如くならず。
 心痛のあまり背筋・凝結して卒倒するの象あり。
 門前にて怪我する象あり。
 屈伸を得ずして上下隔絶し、心・安からざるの甚だしき意あり。

 この爻・変じて剥となる 将に落ちんとするの象、助けなきなり。
 党類の首長、其の心・堅固にして手段を尽くし半途にして腰折るゝ象あり」

 まさに この通りの結果になったと言える。

 兇漢の名は安重根という。
 名前の『重根』は、艮為山の『重艮』に通じます。
 根は「木+艮」で八卦の「艮」に通じ、その艮山を重ねた卦が艮爲山です。

◇吝象翁の易占いは、何か得体の知れないものが憑いているようなものばかりです。
 刺殺者の名前・安重根が卦名の艮爲山の重艮に通じるなんて不思議です。
  ・・・参考文献:紀藤元之介著『乾坤一代男』・・・

◇そうそう、現在『高島易』とか『高島易断本部』とか、高島を名乗る易がたくさんありますが、高島嘉右衛門・吝象翁とは何の関係もありません。

 吝象翁の易はゆるく観ても三代で絶えています。高島家では『高島易』は高島呑象翁一代の易であると明言しています。
 現在残っているのは、高島呑象嘉右衛門先生の書かれた御著書だけです。

・・・以上は、去年のブログです・・・

画像


◆ことしは、すこし長くなりますが、上記の艮為山九三の占例が出てくる、紀藤元之介先生が書かれた『易豪 高島嘉右衛門・・易と金と事業と・・・』の「政治家と易者」の部分をUPいたします:

◇◇◇政治家と易者◇◇◇

 蹇蹇匪躬奚念帰
 満天風露湿征衣
 秋宵石狩山頭夢
 尚尚黒竜江上飛

(蹇蹇匪躬〔けんけんひきゅう〕、なんぞ帰るを念わん。
 満天の風露、征衣を湿〔うる〕おす、
 秋宵石狩山頭の夢。
 なお黒竜江上に向ってとぶ)

 この詩は、伊藤博文が北海道石狩に旅したおりに作ったものである。
 博文はその養子博邦の嫁に、嘉右衛門の娘タマを迎えさせたくらいだから、とくに親交があった。
 この詩には、かれが嘉右衛門からすくなからぬ影響をうけたことが、ハッキリ出ている。
 「石狩客次」という題のこの詩の初句は、いうまでもなく易のことばである【易爺:水山蹇の六ニの辞】。
 「苦難な世を治める聰明英邁【えいまい】な君(明治天皇にかたどる)につかえ、一身の成敗利鈍を顧みず国難に当る」という志を、易のことばをかりで述べたものである。
 石狩の宿とは、嘉右衛門がひらいた高島農場(石狩・十勝で千五百万坪あった〉のことであろう。
 幕末の干戈のもとに身を曝し、維新後は新政府の要人として、身命を國に捧げてきた博文の心境は、この詩からおすに、佐久間象山のそれに似たものがあったように思う。
 博文は春畝〔しゅんぽ〕と号し書をよくし、嘉右衛門には、易のことばをとくに書いてくれた。
 政治家にはそれぞれ有能なブレーンがついて、そのしごとを助けることになっているが、博文には、嘉右衛門などが最もよいブレ
ーンだったようだ。
 いくたびか発行された『高島易断』の中に伊藤博文の名はよくでてくる。しかしその身の上のことを占った例は、あまり出てこない。・・・他の政治家については、「某年某月某高官の身の上を占う」とか、「某貴顕某に件について占う」とかいう記事を散見するが、どうしてであろうか。

 明治四十二年(一九〇九)伊藤が満州訪問におもむいたとき、嘉右衛門はもう脚が弱っていて、出発の挨拶にきた伊藤を寝床のうえで見送った。
「じゃあ行ってくる」
 そういって立った博文に、
「気をつけておいでなせえ。易は艮為山〔ごんいざん〕の三爻でしたよ」
 と嘉右衛門はいった。
 この易は、まえに見ておいたのだが、あまりよい易ではないので、黙っているつもりだった。
「ありがとう。その背にとどまりてその身をえず、その庭に行きてその人を見ず、か」
 伊藤はこの運命的な易のことばを、軽く口誦〔くちずさ〕んで、嘉右衛門のそばを離れた。
 易というものは、嘉右衛門のいうとおり、「神の語学」だ。
 このことは易自身が、証明している。
「その命を受くるや響のごとく、遠近幽深あることなく、ついに来物(未来)を知る」
 と。嘉右衛門は伊藤の安否を占った易の判断をつげなかったが、伊藤もついにきかずにわかれた。
 伊藤の出発は、大磯の滄浪閣からだったが、いざ出発というとき、急に停電した。ロ
ーソクよランプよというさわぎの中で、一番先きにともしてきたのは岐阜提灯〔ぎふちょうちん〕だった。凶事のあとで、
「あれが予兆だったらしい」
 と側近のあいだで語り合われた。
 予兆ともいうべきものは、そのすこしまえにもあった。
 博文が東京から大磯に帰ろうとした十月十二日。その夜は池上本門寺のお会式で、マトイがたくさん出、熱狂的な日蓮信者の法華太鼓が耳を聾するばかりに打ち鳴らされていた。
「法華の太鼓に送られて満州へ出かけるか」 と、かれは咳いたという。或いは死を予感していたのかもしれない。
 十月十四日大磯出発。随員は室田義文、秘書官古谷久綱、医師たちを含め九名だった。法華の太鼓に送られて・・・と呟いてから二週間目の二十六日、かれはハルピン駅頭で狙撃され、わずか三十分の後に絶命した。
 『高島易断』の中の、艮為山〔ごんいざん〕三爻〔こう〕のところには、
「止蹇開き難し。自ら事を設け意のごとくならず、心痛のあまり背筋凝結して卒倒するの象あり」
「門前にて怪我する象あり」
「屈伸を得ずして上下隔絶し、心安からざるの甚しき意あり」
「この爻変じて剥となる。まさに落んとするの象なり。助けなきなり」
「党類の首長、其の心・堅固にして手段をつくし、半途にして腰折るる意あり」
 とある。易のことばは一種の真言で、何
千年後におこる事象を適切に言い当てていることが少くないが、それを解した嘉右衛門のこの文章も、とくに博文という歴史的な人物の最期のために書かれたものではなかったが、その非命を暗示しているかのようなことばである。(この解釈は明治三十八年発行の『高島易断』に書かれていた)

 凶漢の名は、韓国の愛国者安重根〔あんじゅうごん〕と伝えられている。
 こじつけになるが、艮為山という易は、重艮〔じゅうごん=艮☶を重ねる〕とよばれる。艮と根は同音・同義である。
 嘉右衛門は八つほど年下の明治の顕臣の死を病床できき、さぞ気落ちしたことであろう。

 伊藤博文と高島嘉右衛門とは、しょっちゅう行き来していた。(小玉呑象翁の直話)


 嘉右衛門は、話が下手だったから、伯円にしゃべりかたを習った。で、時代がかった調子で、政治家がたずねてくると、
「かかるところへ大隈・伊藤」
 といったような口調で、伯円・円朝・如燕などの真似をした。また、歌舞伎のほうでも団十郎・菊五郎・左団次などとも懇意にしていたから、かれをモデルにした芝居が作られたほどである。
 一人の花魁〔おいらん〕を山内容堂〔やまのうちようどう〕と貧書生とが取りあうところへ、浦島屋高右衛門という侠客が出てきて、うまくさばく。
 外題は『浦島屋高右衛門』とあって、貧書生というのはのちの井上毅で、高右衛門の粋なさばきで思う女と添うことができ、やがて立身出世して恩人と出会う・・・という筋書きだった。

 また、
『十年の役』という外題の芝居もできた。

 尾上菊五郎が高島嘉右衛門に扮して、山県有朋に十年の役の見とおしをきかれ、
「つらつら天文を案ずるに・・・」
 と、予言する場面もあった。

 嘉右衛門は、まえにも書いたように“政商
”ではなく、いずれかといえば政治家たちの参謀だった。当時の落語家が、
「何と易者はエライ者、参議(算木)を前に筮〔えき=筮竹のこと〕をひく」などとシャレたのは、嘉右衛門のことをいったのであり、かれ自身このダジャレをよろこんで、弟子達に
「わしは山水蒙〔さんすいもう〕で二百万円せしめたんだから、エライもんだろう」
 と、いったりした。
 せしめたといっても、かれが不当利得したわけではなく、アメリカにある償金の返還いかんを占い、横浜の築港費用に当てさせたのである。
 大限・伊藤・井上の三人の参議をまえに、「易でただ当ててみたところで仕方ないでしょう。わしは易をひくからには、どうしたらいかという目的のある占いをしたい。金が取れるかどうか、取れたらその金をどう使うか、金が取れたら、高島おまえにやるから何でもいい、国の役に立つことに使え、というような話にはならんもんですか。そもそもあなたがたは、アテにしていないんだから、取れたらわしに使わして下さってもいいでしょう」
 といったのである。
 大隈・伊藤・井上などにしてみれば、そのとおり、といわざるを得ない。
「いいとも」
 と答えたのである。
 

    ×  ×  ×

 きのうも書きましたが、小生はここのところ終戦直後の在日朝鮮人が起した暴動・事件や、それを誘導する要因となったカイロ会談やGHQの占領政策などについて調べています。肝腎なところになると、その資料は持ち出し禁止とか閲覧の手続きが煩雑で、隠蔽したい勢力が現在でも多く居るのを感じています。終戦により解放された学者・共産党員や180度転向した報道関係には辟易しています。嘆かわしいことです><;同時に憤りも感じています!

 それと易の乾☰坤☷離☲坎☵が使われている国旗がありますが、易自体は非常に間口が広いものです。当然、世界じゅうのどこの国にでも易を当て嵌めることは可能です。それをどういう形で当て嵌めるは、その国の器量や品性が影響するのは当然です。他の国のことはどうでもいいことですから、敢てコトアゲすることは致しませんが、日本の国も当然易は影響しています。
・・・具体的にどこにあるか?

 それは、日本の根本思想である神道・自然道にありあます。神道・かんながらの道は易経の思想と深い関係があります。・・・とくに『古事記』のなかには明確に書かれています。このことは次の機会に詳しく書きます^L^


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