2020年7月30日「李登輝さん」・・・司馬遼太郎著『台湾紀行  街道を行く』より

2020年7月30日、
 李登輝元台湾総統が御逝去されました。
 謹んで哀悼の意を表しますm(_ _)m

7月30日李登輝さん逝く.JPG

ことしの司馬遼太郎先生の命日・菜の花忌の2月12日のブログを書くために『台湾紀行 街道を行く』を読み返しました。
ほんとうは李登輝先生と司馬先生の関係について書く予定でしたが、うまく纏まらずに「数奇 奇耦〔ぐう〕」の耦〔ぐう〕の字をペイントで書いてごまかしたことがありました。

先日はたまたま台湾のニュースで五輪参加予定の国々をデザインした和服ショウを報じているを見つけました。
台湾の着物は、梅の花と台湾蘭鵲〔タイワンランチェ〕というスズメ目の台湾固有種の可憐な鳥をデザインしたものでした。ヤマムスメ〔山娘〕という名もあるそうです。
・・・【易爺】は一切TVを見ておりませんのでこういうことには疎いのです^L^
・・・その時にも”李登輝さん”のことが報じられて直ぐに消えたことがありましたので、もしかして・・・と思っていました。

◆「李登輝さん」・・・これは司馬遼太郎先生が書いた『台湾紀行 街道を行く』のタイトルのひとつです^L^
 李登輝元台湾総統と司馬先生とはおなじ歳・大正十二年【1923年】生まれで、軍隊でも日本陸軍の予備役土官教育の第十一期生で同期生だそうです。
・・・ですから、司馬先生は親しみをこめて「李登輝さん」と呼ばれているのでしょう。

7月31日李登輝さん   台湾総統府.jpg

  李登輝さん   
      
      司馬遼太郎


 台北の夜は、ネオンが喚〔わめ〕いているようで、繁昌という言葉がこれほどふさわしい街もすくなくない。
 1993年1月5日、夕食を終えて、夜の街に出た。車があふれ、どのタクシーも、他を蹴ちらすように走る。単車がそのあいだを縫って戦闘機乗りのように飛ばしている。地下鉄のないこの街にとって、単車は通勤用で、伊達〔だて〕や酔狂の道具ではない。
「台湾は車優先です」
 と、老台北〔ラオタイペイ〕がいったとおり、赤信号でも、人が横断していないとみると、運転者は簡単に突破してしまう。運転者が自分の状況判断で進退していて、さほどの事故もおこさないのである。

 そのあたり、漢民族は機敏である。
 機敏を裏返せば・・・あるいは斜めからみれば・・・法や国家に頼るよりも自分の能力に頼るしかない、ということかもしれない。戦後、本島人の多くは政治に背をむけ、台北の夜の車のように生きてきた。

 秦の始皇帝は法によって統治した。庶民にとって法はわずらわしく、窮屈で、息苦しかった。
 その世を終らせるべく反乱軍をひきいた劉邦〔りゅうほう〕が、紀元前206年のはじめ、武関の関〔せき〕をやぶって秦の都の咸陽〔かんよう
〕に入ったとき、まっさきに土地の父老たちをあつめ、
 「法ハ三章ノミ。人ヲ殺ス者ハ死シ、人ヲ傷ツクルモノ、及ビ盗ムモノハ、罪ニ抵〔あた〕ル」
 と宣言した。法は三章だけだ、という劉邦のことばに、ひとびとは歓喜した。もっとも やがて成立する漢帝国は、かならずしも法三章ではなかったが。

「法匪〔ほうひ〕」
 ということばが、1930年代、中国の一角にうまれた。匪とはわるもののことである。匪賊などという。
 1932年、日本の一部参謀将校の謀略によって、中国東北地方に、満洲帝国がつくられた。
 にわか造りの法体系もできた。土地の人たちはそれをきらい、日本人のことを、ひそかに”法匪”とよんだ。当時の新語だったかとおもわれる。


 むろん台湾は、ちゃんとした三権分立の国家で、法体系も整っている。が、運用面では戒厳令が布〔し〕かれていたこともあって、ながく錆〔さ〕びついていた(ここ数年、民主化がすすんで、いま錆落〔さびおと〕しの真っ最中である)。
 最大の錆びつきが、国会議員だった。ほんの一昨年(1991年)まで、大陸系(いわば蒋介石系)国会議員は、四十二年間も改選されることなく、いわば歳費だけをむさぼってきたのである。

 李登輝氏は、1991年12月31日をもって、この化石のような国会議員全員をようやく引退させた。


 李登輝という人が最初の本島人の総統であることは、すでにふれた。年譜ふうにいうと、1988年、蒋介石の長男の将経国総統の死とともに、憲法の規定により、副総統のこの人が昇格した。
 その翌々年の1990年、国民大会で第八代総統に選出され、その地位は正統のものとなった
 この人が、二年後の1992年、年頭の祝辞で、
「最優先課題として、憲政を改革したい」
 と演説をした。法でおさめる、ということと同義語である。世界の先進国では、法の下に国王や大統領、それに国民がいるように、台湾もそうしたいということであろう。

 本島人の李登輝さんが総統になったというのは、たとえば十九世紀のインドで英国人のゴルフクラブの理事長のイスに、インド人のキャディがすわるようなものだった。
 台湾では、政府も議会も司法関係も、それに軍も、重職を占めている人はほとんど大陸からやってきた人達であった。かれらは、たがいに連繋し、結束していた。
 李登輝さんは、それらをどう説得したのだろう。このひとには掛け引き屋〔ネゴシエーター〕の要素はなさそうである。
 あるのは、あふるるような情と知性だが、おそらく国家への愛と相手の立場への同情というものをもって、説きに説いたかとおもわれる。
 それまで、首相(行政院長)も、そっぽをむいていた。首相は、大陸系の郝柏村〔かくはくせん〕という、いかつい顔の元軍人である。李登輝さんが第八代総統に就任して二年後の1992年5月22日付の「産経新聞」を見ると、
 【郝柏村氏が異例の祝辞】
という一段の記事が出ている。総統の部下である首相が、二年経ってはじめておめでとうと言ったという。それが、外国の新聞の記事になっている。当時の台湾は、そんなふうだったのである。

 「総統就任二年を経過し、われわれは総統に敬意と祝賀を贈りたい」
 というものであった。
 総統閣下、あなたは合格でございます、と部下がいう。祝辞は、テレビでのべられた。全島が、ほっとしたかと思われる。


 大陸系は、二千万というこの島の人口のなかで、わずか十数パーセントにすぎない。が、支配階級である。
 さらにはこの人達は、全島に戒厳令を布いた。布きっぱなしの戒厳令などは、世界史にもめずらしいのではないか。解除されたのは、数年前の1987年なのである。


 戒厳令は、ふつう巨大災害がおこったときなどに、ほんの一時期布かれる。
 その地域を一時的に軍隊が支配し、通常の行政権・司法権は停止される。目的は、人民の保護である。
 日本の近代史では、大正12年(1923)の関東大震災の混乱の一時期、この処置がとられた。ただし適用された地域は東京とその隣接県にかぎられていた。
 また昭和11年(1936)、皇道派とよばれる陸軍の一部青年将校が、”現状維持派”の要人数人を襲撃して殺した、いわゆる二・二六事件のときも、政府はこの処置をとった。地域は東京だけだった。


 台湾は、この非常措置が、数十年、恒常的にとられてきたのである。
 将経国政権の末期になって、ようやく解かれた。
 将経国は将家の人ながら、国家は私物ではないとおもうようになり、”台湾化政策”をすすめた。戒厳令の解除は、その一つである。
 そのあと、法が、よみがえった。

 ・・・・中略・・・

◆李登輝さんとは、むろん初対面であった。
 会う前から懐しさをおぼえていたのは、ひとつには、この人も私も、旧日本陸軍の予備役土官教育の第十一期生だったことである。
 本島人には小柄な人が多いのだが、この人は例外といっていい。身長181センチで、しかも贅肉がない。容貌は下顎〔かがく〕が大きく発達し、山から伐〔き〕りだしたばかりの大木に粗っぽく目鼻を彫ったようで、笑顔になると、木の香りがにおい立つようである。【易爺^L^】

 ”六十になれば”という思い定〔さだ〕めも、この風貌なら、当然かとも思えた。牧師になって山地に福音を伝えにゆく、という話である。
 が、この人は総統になってしまった。六十一歳のときに、将経国晩年の”台湾化政策”によって副総統に指名され、農業経済という学問の世界から、政治にひき入れられたのである。望んだことではなかった。

 そのころ、逸話がある。農民のデモが台北の政府にむかっているという状況下のことだった。
 台北の役所でこのことをきいたこの人は、涙があふれそうになったという。
 農民だった父君のこと、少年のころに接した農民たちのさまざまな顔をおもい浮かべ、あの沈黙の人達がデモをするようになったか、ということが、本来、デモに対応せねばならぬ自分の職を一瞬わすれさせたのである。


 そういう李登輝さんが、元首になってしまっている。
 当然ながら、強大な権力をもっている。陸海空三軍の最高司令官でもある。
 権力とは、何だろう。
 科学はたいていのことを解明したし、これからもその方角で進むはずである。が、人間の現象のなかでの権力とセックスばかりは、永遠に解明されないにちがいない。
 小は係長の権力がある。また会社員にとっては、”社長の意向”という漠然とした表現が力をもつことがある。そういう力は、大学の理学部や工学部で研究されることはなさそうである。


 台湾では、戦後、大陸から引っ越してきた国家(中華民国)の権力が君臨し、本島人にとって断頭台の刃のようにおそろしかった。いまの年配の人達で、いつこの刃が自分の首にむかって落ちてくるか、という不安を一瞬でも持たなかった人は、いないはずである。
 たとえば、アメリカ国籍をもっ三十歳の天才的数学者が、1981年7月3日の早朝、台湾大学のキャンパスで変死体になって発見された。巷説では、かれは”台湾独立”をとなえていたという。
 「かれは、自分の罪におびえて自殺した」
 と、当時、台北の警備当局は発表したらしい(若林正丈著司『東アジアの国家と社会②台湾』東京大学出版会刊、による)。
 台湾独立というのは、台湾の中華民国の側からみても、大陸の中華人民共和国の側からみても、危険思想の最大のものである。なぜか、と考える必要もない。
 権力がそれを好まないだけのことである。大陸中国の場合、もし台湾に独立の気配があるとみれば、ためらいなく攻めてくるにちがいない。


 台湾では、ごく数年前まで、密告が奨励された。密告されるべき対象は、危険思想(具体的には共産主義)のもちぬしだった。当時の台湾当局は、こういうひとびとを匪〔ひ〕とよんだ。
 この場合、匪〔わるもの〕がそこにいるのを知ってしかも密告しなかったというのも、罪になった。”知匪不報の罪”というのだそうである。実例としては、1975年、在野の名士が、その”罪”で逮捕された。
 すべては、戒厳令の時代のことで、こんにちそういうことは一切ない。
 ないばかりか、野党の存在もみとめられ、昨年(1992年)12月の選挙で、野党第一党の民進党が、大いに躍進した。民進党はいまでこそ自制しているが、当初は台湾独立を、うずうずするほど叫びたそうであった。いまは言論の自由はあるが、しかし北京が疑心暗鬼になって台湾に飛びかかってきたら、主義も いのちも 繁栄も、いっさいが灰になってしまう。権力というのは、いかなる猛獣よりもおそろしいのである。


 世界には、多様で多数の国家権力がある。
 李登輝さんは、その一つを持ちながら、しかもにこにこしている。

「よくそんな座にお着きになりましたね」
 と、私は感心したような、あきれたような感想を、質問がわりに述べた。
 李登輝さんは、即座に反応した。

「・・・権力を自分にひきょせるのではなくて」
 やや内気〔シャイ〕な微笑をうかべながら、
「まして 自分が権力そのものになるのではなくて、ここ(机の上)に置いて、いわば権力を客観化して、・・・つまり実際主義〔プラグマティズム〕でもって、権力から役に立つものだけをひきだせばいい、と思っているんです」
 といった。

 多年、そのことを考えできたらしく、一気にのべた言葉がすべて体温を帯びていた。
 しかも言い方が初々しく、若い研究者が、実験装置を前に、学問としてその主題を語っているかのようでもあった。すでに齢をとり、七十にもなるこの人がである。

・・・以上、司馬遼太郎著『台湾紀行 街道を行く』より・・・

  李登輝元台湾総統のご冥福をお祈りいたします。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント