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zoom RSS ◆薮田嘉一郎先生の「易雑感」

<<   作成日時 : 2019/01/13 13:03   >>

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◆薮田嘉一郎先生の「易雑感」
きょう1月13日は薮田嘉一郎・燿山先生の命日です。
昭和51年1月13日に逝去されました。

加藤大岳先生が『易学研究』に載せられた「薮田嘉一郎氏を悼む」という文章のなかで次のように書かれています:
・・・ ずいぶん以前のことであるが、本誌上に掲載された今東光氏の史的随筆に、薮田氏が異見を寄せられたのに対し今氏は、あんな怪物と関わり合うわけにはゆかないと苦笑されたことがあった。まことに薮田氏は畏るべき存在であったわけである。・・・ひとり易学の分野だけではなく、あらゆる文学・史学・哲学・宗教の領域に亘って。・・

   ×  ×  ×

 今年はちょうど60年前の薮田先生の記事を掲載しようと捜したのですが、この年の記事は全く見当りませんでした。翌年の昭和45年1月号に年末に書いた記事を見つけました^L^
 岩波文庫の『易経』に関する随筆です。小生も岩波文庫の『易経』はいつも身近に置いているのですが、ワイド版です。薮田先生がこの随筆のなかで言及されているのは通常版のページ数ですので、ヤサガシしたのですが見当りません・・・不思議と必要な時に限って見当らないものです。時間がないので、そのページの解説は次の機会にします。

   ×  ×  ×
   『雑感』

       薮田嘉一郎

 ここ一年間全くごぶさたを申上げた。
前年大分横行したようなので、自らに謹慎を命じたわけだが、ついに加藤先生のお呼出しに接して、なにか一言御挨拶ということとなった。しかし今年は謹慎の口実の下に易の勉強は何もしなかったので、御報告申上げるような知見はなく、ただいくらかの雑感を誌す程度にすぎないことを、まず読者諸賢におことわり致しておく。

 岩波文庫本の『易経』が出た。すでに入手された方も多いと思うが、私も一本を買った。これは曽て出版された同文庫の『易経』の改稿版であって、訳者は前と同じく高田真治氏であり、新しく後藤基巳氏の名が共訳者として連ねられている。こんなことは先刻御承知のことだが これから書いて行かないと文章にならない。前版は、私の所持しているのは、昭和十二年四月三十日発行のもので、初版本である。定価は六十銭。昭和十二年というと三十二年前で、六十銭は現在の価格に直すとほぼ六百円でないか。今度のは上下両冊で三百円であるから、現在の二倍である。そんなことを考えると、本の値段は他の物価に比しまだ安いものだ。

 旧版『易経』を私は随分愛用した。しかし私以上の愛用者を紀藤元之介氏に見た。戦後、奈良で初めてお目にかかったとき、紀藤先生が所持されていたこの本は、「韋編三絶」の見本のような、ボロボロのものであった。「韋編三絶」とは『史記』の「孔子世家」にある文句で、孔子が晩年に易を喜び、序・彖・繋・象・説卦・文言などを作ったが、易を読んで、簡をとじつけた韋(なめしがわ)の紐が三ベんも切れた、それ位読みかえした、というのである。「紀藤さんは今孔子だなあ」と感心したものである。
 因みに、孔子が晩年に易を好んで読んだというのは一つの伝説である。これを事実と信じる人が今でもあり、『易学研究』十一月号にも鈴木由次郎氏の「孔子と易」という講演要旨がのっていて、その説であるが、これは一つの説であり、信念である。それは主張者の自由であるが、私はこれを信じない。思想史から見ても不合理である。『論語』にあるから『史記』に書いてあるからといって、それは史実と限らない。シナの古典は真偽入り交っている。偽書は論ぜず真本にも随処に後人の竄入がある。孔子が『易経』を見たという説は、劉歆一派の古文学者の入れ筆と見なければならないと思う。なお、文庫本上冊解説57頁に、荀子に易を引いているとあるが、これまた皆入れ筆である。

 旧版は、このように愛用者にとっては此上もなく愛用に値するものであったが易について予備知識がない者にとってはこれほど無用の書はなかったであろう。『易経』という名に惚れて買った読書人の大多数は忽ちこの本を投出したにちがいない。当時古本屋でま新しいこの本がいくらでも見つかった。二、三年経った後も当地の書店の棚にはまだ初版本が売れ残っていた。

 なぜかというと、この本を読書用としてとりあげた場合、一体何が書いてあるのか、さっぱり分らないからである。附録の解説だけでも通読した人はよほど辛抱強い人であった。わたし達がこの本を愛用したというのも、この本を読書用として認めたためでない。『易経』についてすでになにがしかの知識をもっていて、『易経』を常時携行し、折にふれて経文を玩味したいのだが、なにかコンパクトな、ハンディーな本がなかろうかという時にちょうどこの本が出たので、一本を購ったにすぎない。買ってみると、全く希望通りの本で、さてこそ愛用したのである。他の人も同様であったと推量する。

 新版は、易について特別な知識を持っていなくても、ある程度高度の教養を持つ者なれば、読めば「なるほど易とはこんなものか」と分るようにできていて、なかなか親切である。その点訳者の労を多とするものであるが、ここに意外の欠陥が現われた。その一つは、これは訳者の与り知らぬところであろうが、本が上下二冊に分れていることである。私は、あれにはどう書いであったかと、時に参考にさせて頂いているが、上冊を見たい時には、下冊は目前にあるのだが、上冊は行方不明になっている。下冊を見たい時はこの逆で片方はどこかに息をひそめて隠れているようだ。これはお前が不始末だからだ、といわれれば、その通りであるが、しかし日常雑多な仕事を持って一時に処理しなければならない私には、これ亦やむをえぬ仕儀である。これも私同様の人々は少なくはあるまい。易経はなるほど昔から上下二巻に分れているが他の本とちがって、上巻を読めば上巻はまず脇へ置いておき、下巻にとりかかるといった代物でない。上下は有機的に連っているから、下巻を理解するためには上巻が要り、上巻を理解するためには下巻が要る。筮でもやるとことに両巻が揃っていなくてはならぬ。高島易断に高島呑象が、上か下か片方を牢内に得て、易の研究をしたと書いてあるが、私にはそんな器用なまねはできない。それであれば両冊を箱にでも入れて離れないようにしておればよいわけだが、それができないところが現実で、前版のように一冊にまとまっておれば、何の問題もないのである。また二冊ということになっていると、二冊をポケットに入れてあるくのは甚だ難儀である。どうもゴロゴロしていかん。これも一冊たるにこしたことはないのである。発行所は文庫本の体裁から、また営業政策上から二冊に分けたのかもしれないが、著者はその申出があっても、固く一冊とすることを要求してほしかった。この点親切心が足りなかったと思う。

 欠陥の第二は、易の解釈があまりにも安易なことである。易があの程度で分かるならば易の勉強も楽なもので、過去二千年程の汗牛充棟の研究書は反故紙同然である。一般読書人にも理解できるようになったのは大いに結構であるが「易とはこの程度のものか」と組し易しと見られるのは残念である。こういう解釈の仕方は仏教でいうと浅解である。仏教でも浅解はするが、「その奥に深解があるんだぞ」と(実際はなくても)暗示することを忘れない。とういう用意が欲しかった。

 仏教を引っぱり回した序だが、十二月号の後藤基巳氏の「王船山の易説」は非常に明快に説かれていて楽しく読んだ。王船山の易の本は私も先年中共製の【易爺^L^】を買ったが、急いで読まねばならぬものでないので、そのまま本箱につっこんだままになっている。が、もう引っぱり出す必要もないほどよくわかった。こういう明快性(クラレテ)【易爺:Clarté=光明 フランス語】は後藤氏の独壇場なのであろう。しかしその明快性が時には欠点にもなるのである。さて王船山の易説を後藤氏は「深遠高邁な哲学であり、云云」と言っておられるが、そういう教説はすでに仏教では試みられた後であると申しておく。

 話が脇道へ入ったが、もとの本通りへ出ることとして、『易経』の繋辞は、あれはわざと分からないように作ったものでないかと近頃考えるようになった。なるほど部分的には分かるようであるが、全体的に見て普通の智解では分からないのである。論理的には箸にも棒にもかからない支離滅裂なものである。これは禅宗の詩偏に非常によく似ている。はじめから解からないということが分かっておれば、二千年来あのような夥しい注釈書はできなかったであろうが、罪なことである。

 しからば易経はついに分からないものであるかというに、論理的に分からないのは右に言った通りであるが、非理論的に非合理的に見れば、これまた明々白々と分るのでないかと思う。分らないのは論理とか合理とかの暗雲に閉ざされているからである。これも禅宗詩偈と同様である。だから易が本当に分かるためには現在凡百の注釈書を全部古本屋に払って無一物いや無一本となり、同時に知識も忘却し果てて、改めて易を心読しなければならないのでないか。この点旧文庫本の方が優れているので、あの本を分かっても分からなくても、紀藤先生のように韋編三絶的に読めば、自づから真智が開発されるのでないか。紀藤先生はこれを実践せられた方であろう。あらためて紀藤先生に敬意を表し、兼ねて戦後の再版
に際し、旧版を「旧のままでよろしい」(下冊336頁)と固執されたという高田氏の見識を高く評価したい。

 われわれが易を知ろうとするのは、易を活用するためである。易を活用するためには学者先生やそれがものした注釈書研究書など無用の長物である。「易学研究」といっても、それを脱却して、高度の易学研究をこそ希求すべきであるというのが、私の歳未における感想であり、年頭の発心である。囈言【ゲイゲン=たわごと】酔って件【くだん】の如し。(昭和44年12月12日)
  ・・・『易学研究』昭和45年1月号より・・・

  ×  ×  ×

 いま手許にあるワイド版は昭和68年版ですが税込みで上が1000円 下が1100円ですから、旧版の60銭から比べると、3500倍になっています。
 ネットで調べたら昭和12年当時のコーヒー1杯が15銭で、いまの値段を450円とすれば3000倍になります。
 学徒動員で学生が戦地に赴くとき『万葉集』や『古事記』など日本の古典を携行したという話がありますが、小生なら『易経』ですね。卦名の字だけでも退屈しません。・・・漢字あり、ひらがなあり、カタカナあり、アルファベットありの日本語をつかう日本人に生れた幸せですね^L^

 薮田嘉一郎・燿山先生の御冥福を御祈りいたします(合掌)

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