◆10月16日“明治の易聖”高島嘉右衛門先生の命日。

◆10月16日“明治の易聖”高島嘉右衛門・呑象先生の命日です。
 きょうは 地震で大儲け、ツナミで大損をした若い頃を呑象先生のお話です^L^

きょう10月16日は『明治の易聖』といわれた高島嘉右衛門〔たかしま かえもん〕・呑象〔とんしょう〕先生の命日です。

日本最初の北海道との定期船を運行したり、ガス事業を起したり明治の殖産興業には貢献した事業家でした。その事業に役立てるために易を用いていた実占家でもありました。

高島呑象翁は
天保3年11月3日【1832年12月24日】の生まれで、
大正3年【1914年】10月16日に亡くなりました。

弟の高島徳右衛門氏は、加藤大岳先生が『易占の神秘』を執筆する際に占例を教えて頂いたそうです。


◆きょうは高島嘉右衛門・呑象先生が地震で大儲けをし、ツナミで大損をしたという紀藤先生のエッセイ「高島嘉右衛門を見直そう(45)」を掲載します。:
【高島嘉右衛門を見直そう(45)】

 異説

    紀藤元之介



 12月号に「熱田埠頭築造の占」について書き、塚本健策先生の送って下さった11月9日付の「朝日新聞・名古屋市内版」の記事と、『高島易断』所載
の記事とに、多少ちがったところがあることを書きました。

 朝日新聞のほうは、「明治三十一年五月のある晴れた日」「高島嘉右衛門が小舟を熱田湾に浮べ」その舟のなかで筮したように書かれており、
 『高島易断』のほうには、「明治三十年六月」「愛知県庁」で筮したことが記されているわけです。

 どちらがほんとうか、となりますが 一方は(『高島易断』)嘉右衛門自身の著書に載っており、その得卦・占断まで詳しく出ているのですから、これは疑うことは出来ません。

 では、朝日の記事は出鱈目かというと、おそらく記者が、愛知史か名古屋史か、名古屋港湾史かをしらべたうえで書いたものでしょうから、これもまちがいないことかも知れません。何しろ嘉右衛門はそのころ、たびたび名古屋に赴いていましたから「三十年六月に、愛知県庁で易を立て」たのち、三十一年五月にも、港湾に小舟を浮べ現地で別の角度から、又一筮したことがあったのでしょう。したがって、朝日の記事は嘘だなどとは云えないのであります。


 こういうことはよくあります。

 ところが、つぎのようなのはどうでしょう。昔、その創立に加わり、いまは関係ない団体になっていますが、日易連という団体がありますが、その機関紙「日易タイムス」の11月号に、木川哲秀氏が書かれた「易占家列伝」という記事のなかに、高島嘉右衛門について書かれたものがあるのです。
  ×  ×  ×
「嘉右衛門の伝記も種々あるが、内容的に一致しない点が数ケ所ある。伝記のなかでも最も新らしいのは紀藤元之介君の著した『乾坤一代男』による嘉右衛門伝であるが、これによると氏は二十四才頃江戸にあって材木を業とし安政二年の大地震によって大儲けをしたとあるが、小生が本国堂二代目を継いだ石田先生から聞いた話とは大分違っているのである。地震のあと大火となり、その最中に津浪が押し寄せて木場の材木は波に浚〔さら〕われ殆んど残らなかったという。

 とすると、嘉右衛門は大儲けどころか大損金しなければならなかった筈である。その地震のために水戸屋敷も潰れ、有名な藤田東湖という学者も亡くなっている。
 いかに易の名人嘉右衛門でも、若冠二十四才にして借金をしてまで材木の買占めをやるとは思えないのである。そんな大それた決断が、己れ一人でできたであろうか。
正確を期し不明な点を糺〔ただ〕すことが先決であると、八方心当りの先輩へ手紙を出してみたが、ほとんど回答は得られない。(後略)
  ×  ×  ×

 木川哲秀氏は、東京の古い占業家ですが、私も面識があり、乾坤一代男を取り上げて論じられたので、注目したわけであります。
 『乾伸一代男』は私の旧著の書名で易学研究に昭和29年から連載した「易豪・高島嘉右衛門伝」に加筆し、単行本として出したものです。そのなかに安政二年の大地震と、安政五年前大津浪〔おおつなみ〕のことを書きました。

 安政二年の大地震については、同書133ページの「地震と火事」というところで書いておきました。安政二年十二月二日のことです。

 安政五年の大津浪のことは、同書14ぺージに「八月二十五日。江戸市中に大風が見舞った・・・深川には津浪が押寄せた・・・」と書いておきました。
 この『乾帰一代男』をもとにして、大衆にもわかるように、『易と金と事業と』というホンを書きましたが、このほうがわかりいいので、そこのところから抜き書きしてみることにしましょう。

 141ページ「釜鳴り」
 ・・・安政二年【1854/55年】といえば、かれがまだ二十四の時のことだ。
 この年十月二日【1855年11月11日】に、江戸に大地震がおこった。藤田東湖や戸田淡窓など知名の士がおしつぶされて死んだのも、この地震で、江戸の死者は六千七百人にものぼったという。(中略)

 これが江戸建都以来の騒動といわれた安政二年の大地震で、市内二十七ヶ所から出た火が一面に拡がり、江戸自慢の“いろは火消”も手のつけようがなく、自然鎖火を待つばかリだった。(中略)

 この大地震で、かれはどれだけもうけたか。
 鍋島家の急普請は、ごく安上りに仕上げて感謝されたが、残木で二万両ほど儲け出したのである。まえに人相見の朝元斎山口千枝が、「三十までに一万両ぐらいの分限者になれる」と予断したのと思い合せてみると、二十四で二万両つかんだのである。(中略)
 それにしても“釜鳴り”と、そぼくな“易占"とで一ヤマ当てたのだから、のちに、

「偶然大地震にめぐりあって、僥倖の巨利を博したが、これも間違いの良いほうに間違っただけのことだ」
と述懐しているとおり、全く冒険である。(後略)
 ・・・
と、かれ自身「偶然」と云い、「僥倖」と云っているくらいで、「大それた決断」を「若冠二十四才」でやっても、あり得ないことではなく、これは【嘉右衛門先生】自身チャンと書いているので、信じる
ほかありません。私などいい年をしてなかなか「決断」がつかないことが多いが、当時の嘉右衛門は、くらべものにならない、いいところがあり、又、ツイていたのでしょう。

 木川氏が二代目本国堂さんから聞かれた「津浪」の話は、それから三年目の安政五年の台風のときのことでしょう。このときは、嘉右衛門も大損をし、
それがのちに伝馬町の牢に入れられる「小判密売事件」のもとになっているのです。安政二年のときは、旧十月二日で、大地震と大火事。安政五年の時は旧八月二十五日【易爺※】で、台風と津浪で、これはべつべつのものです。

【易爺※】
 Wikipediaの調べでは、安政三年8月25日【1856年9月23日】台風で江戸に猛烈な暴風と高潮。死者10万人。
という記述があります。もしかしたら安政三年の台風による被害ではないかと考えています。
【易爺※おわり】


『易と金と事業と』の二四ページに
  ×  ×  ×
 例の安政の大地震で大もうけしたおかげで、彼はほとんどの債務を片づけ、いまでは深川の木場で、押しも押されもせぬ大材木商になっていた。(中略)
 ところが、好事魔多し・・・ということわざ通り、思いもよらぬ天災がおこり、彼のせっかく築いた生活は、根こそぎひっくり返されてしまうはめに立ちいたった。
 安政五年(嘉兵衛二十七才)秋八月二十五日。江戸市中に大嵐が見舞ったのである。
 風で、三十三間堂の屋根は、五丁も離れたエンマ堂の上にかぶさってしまうという勢いだったから、家々はもちろん潰れ、或いはふっとび、惨状目をおおわしめるものがあった。
 なかでも、深川にはツナミが押し寄せたからたまらない。永代橋その他の橋は水中に墜落。遠州屋の川にうかべておいた木材も、空地に立て並べておいた数千坪の建築用材も、いっときの間に引きさらわれてしまう、という荒れかただったから、彼が安政二年十月二日の大地震以後、約三年間にもうけた金も、この天災によって、すべて虚〔むな〕しくなってしまったわけだ。

 江戸の材木相場は、ひと月もたたぬうちに、数倍もの高値になり、したがって嘉兵衛の損失はたいへんなものだった。
 第一に、南部家の普請未収金二万五千両は、預っていて流してしまった木材と相殺しただけでなく、上等な木材だったために、それを買い集めるには、ばくだいなたしまえ【足し前=不足を補うお金】が要ったから、さしもの嘉兵衛も弱りきってしまった。(中略)

 だから後年、
「あのときは、まったく大きい石を背にして、大川を泳ぎきろうとするようなものだった」
と述懐したのも、たしかにそのときの彼の実感だったにちがいない。
  ×  ×  ×

 私はこのよへに書いています。これはフィクションでなく、かれ自身の生きているうちに、かれが当然目を通しているホンから、実話として取り上げたものです。そこで、
 木川氏が二代目本国堂さんからきいた話というのと、私が書いた話と、どちらが正しいかということになるのですが、年月日と、大地震と火事、台風と津浪、とを混同し、同時に起ったもののように本国堂さんが思い違いをされたか、木川さんが拙著の二場面を読み較べられなかったのか、ということになります。

 いずれにしても、嘉右衛門は、ニ十代の三年はどのうちに、僥倖と不運とを共に体験したわけで、木川さんが正確を期されたなら、もう一度『乾坤一
代男』でも『易と金と事業と』でも読み返していただきたいと思います。
  ・・・『実占研究』S43年1月号より・・・

◇「安政五年(嘉兵衛二十七才)秋八月二十五日。江戸市中に大嵐が見舞ったのである」とありますが、【易爺※】で書いたように、どうも安政三年の間違いではないと思われます。いろいろ調べてみましたが、安政五年の江戸の大風・ツナミ・高潮の記録は見当りません。・・・三十三間堂の屋根は、五丁も離れたエンマ堂の上にかぶさってしまった、というのは安政三年のことではないという思いが強くなっていますが、江戸・東京には不案内なものですから確定はできません。どちらにしても、地震で大儲けをして津波【高潮】で大損をすると貴重な経験を若い時期にしたことが、その後の呑象先生が大きく生長する糧になったと思われます。


◆ここに書かれている『高島易断』というのは高島嘉右衛門・呑象先生の御著書であり、高島嘉右衛門先生の易術のことです。嘉右衛門先生の易は弟の高島徳右衛門の二人だけです。・・・現在ちまたに溢れている高島易・高嶋易はすべてFAKE高島・高嶋ですから、騙されないようにして下さい。
 易者に騙されない秘訣は、判断した『易経』の辞〔ことば〕を教えてもらい、それを得卦の形で説明して貰うことです・・・これが出来ない易者はニセモノです。いつも言うことですが、易占は質問されれば、いくらでも易しく説明できるものです・・・なにしろ“易”ですから^L^ 小生の管見ですが、大部分の御仁が易しく説明できないニセモノでしょう(笑)

高島嘉右衛門先生の御冥福を御祈り致します(合掌)

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