◆きょう10月8日戊辰年八月二十三日は『白虎隊自刃の日』

◆きょう10月8日は慶応戊辰八月二十三日、白虎隊自刃の日です。

きょう10月8日は慶応戊辰年の八月、後の三日、つまり慶応四年戊辰の年の八月二十三日、あの白虎隊が会津若松の飯盛山で自刃の日です。

♪戦雲くらく日は落ちて、孤城に月の影悲し・・
♪今宵なごりの白虎隊

♪忠烈いまの香にのこす、花も会津の白虎隊・・・


・・・ナンテ、団塊初期の生れですが、この『白虎隊』や♪賀茂の河原に・・・の『ああ新撰組』を隊列を組んで幼いころ歌ったものです^L^
そんなヤツは間違っても日本國を売るようなことはしない筈ですが、それが結構いるのです><;

・・・そういうヤカラは相当育ちが悪いのでしょうか(笑) 小生はもの心ついた頃から親父と毎朝、井戸水で洗顔した後、ふたり並んで東の空に向かって拍手を打って神様を遥拝していましたから、間違っても日本の国を売るようなことは致しません!!!
・・・だんだん横道に逸れそうですね^L^


◆きょうは、慶応四年・明治元年戊辰の年の八月二十三日です、ちょうど150年前に白虎隊士十有九人が自刃した日です。ちょうど百五十年前に当ります。

 会津白虎隊を偲んで、最近見つけた本、永田錦心著『愛吟琵琶歌之研究 巻2』にある「白虎隊」のところをUPいたします。
 この本が出版されたのは昭和三年【1928年】です、一年前の白虎隊六十回忌に当たる年になります。


◆永田錦心著『愛吟琵琶歌之研究 巻2』より、
  白虎隊

 小田錦蛙氏作


 この歌は約十七、八年前に出来たもので、歌としては別に深いところがある訳ではなく、極く単純な筋であります。したがって謡い方も単純で、初心者にも一通りこなし易いところから、方々でよく謡われるのでありましょう。

 この歌では、奥羽戦争の動機なぞを明らかではありませんが、これは鳥羽、伏見の戦いを初め、上野戦争、函館戦争などと共に明治戊辰の役と称されるので、例の西郷隆盛と勝安房〔あわ〕との会見によって江戸城は明渡され、徳川慶喜は水戸に退いて謹慎する事になった。当時、会津藩主松平容保〔かたもり〕は、朝敵の名を受けていたのですが、之は薩長の諸藩が勅命を偽りたる結果であるとなし、奥羽、越後の諸藩と連合して、薩長と決戦する事になった。そこで官軍は諸道より進んで若松城を囲み、激戦の結果、糧食〔りょうしょく〕尽きて城陥〔おちい〕り、明治元年九月容保〔かたもり〕は出〔い〕でて降るに至った。白虎隊の活躍は、この籠城〔ろうじょう〕中の出来事であります。

 そもそも、当時の会津藩の兵制は、十六歳、十七歳の者をもって白虎隊を組織し、十八歳より三十五歳までの者は朱雀隊〔すじゃく・しゅじゃく〕、三十六歳より四十九歳までの者は青龍隊〔せいりゅう〕、五十歳以上の者を以て玄武隊〔げんぶ〕を編成する事になって居りました。これらの隊の名は支那〔しな〕の伝説による四方神〔しほうじん〕の名を取ったので、白虎は西、朱雀は南、青龍は東、玄武は北の神であります。そして白虎隊は士族の階級によって三級に別かれ、更に各級が二隊ずつ別れて居りました。本曲の少年たちは、上級士族の子弟に属する白虎士中隊の二番隊で、隊員は三十七名でありました。飯盛山〔いいもりやま〕で自刃したのは十九士ですが、他に白虎隊士としてこの戦いに戦死したのは三十一名あったそうです。



『花は桜木 人は武士、散るべき時に散らざれば、如何〔いか〕でか人に惜しまれん』

【註釈】
・花は桜木 人は武士・・(花の中にて最も華やかにして散り際の潔〔いさぎよ〕いのは櫻である。人の中にて最も華やかにして死際〔しにぎわ〕の潔いのは武士であるという譬〔たとえ〕え)




『ここに会津藩士の子弟にて、白虎隊と称〔とな〕えしは、日新館〔にっしんかん〕の学生を、選抜したる人々にて、年齢僅〔わず〕かに十五六、十七歳をまだ越えぬ、忠勇〔ちゅうゆう〕義烈〔ぎれつ〕の少年なり』

【註釈】
・子弟(青年、若者)
・日新館(会津藩の塾)
・忠烈義勇(勇敢にして忠義の心がすぐれている事)



『学びの窓に筆を捨て、剣を執〔と〕りて青天〔せいてん〕を、睨〔にら〕む姿健気〔けなげ〕にも、三十六人団結し、主将の許〔もと〕に駈〔か〕けつけぬ』

【註釈】
・学びの窓に筆を捨て(学校にて学ぶことを止める意) 

・剣を執〔と〕りて青天を、睨〔にら〕む姿(剣を握って青空〔あおぞら〕をにらむ姿、勇ましく決心したる状〔さま〕を云ったのである) 

・主将(大将、白虎二番士中隊の隊頭〔たいとう〕は日向〔ひゅうが〕内記〔ないき〕と云った)




『早〔はや〕この時は若松の、四方〔しほう〕は敵の領〔りょう〕となり、城内〔じょうない〕已〔すで〕に兵〔へい〕はつき、残るは哀〔あわ〕れ老若〔ろうにゃく〕の最〔い〕もかよわき婦女子〔ふじょし〕のみ』

【註釈】
・若松の、四方〔しほう〕は敵の領〔りょう〕となり(この時 官軍は石莚口〔いしむしろぐち〕、保成峠〔ほなりとうげ〕などの関門〔かんもん〕を打ち破〔やぶ〕り、達澤部落〔たつさわぶらく〕の間道〔かんどう〕に進んで退路〔たいろ〕を断〔た〕ち、十六橋を越えて戸の口原〔とのくちはら〕に露営〔ろえい〕し、東〔ひがし〕西〔にし〕南〔みなみ〕の三方より攻めかけたのであった)




『主君は安危〔あんき〕を己〔おの〕が背に、自ら負うて顧みぬ、少年隊は勇壮なる、敢死隊〔かんしたい〕の左翼〔さよく〕となり、戸の口原に打ち向かい、群がる敵に斬〔き〕って入る、折りしも烈しき暴風雨、昼なお暗き修羅〔しゅら〕の場〔にわ〕、雷鳴〔らいめい〕山嶽〔さんがく〕を振動し、忽〔たちま〕ち放つ電光に、小兵〔こひょう〕の早業〔はやわざ〕ここかしこ、ひらめく影は白虎の如〔ごと〕く、猛りに猛る少年が、息をもつかず戦いしも、寄せ来る敵は潮〔うしお〕の如く、防ぐ味方は九牛〔きゅうぎゅう〕の、一毛〔いちもう〕だにも足らぬ兵、僅かに一方を斬り抜けて生き残るもの二十人』

【註釈】
・主君は安危〔あんき〕を己〔おの〕が背〔せ〕に、自ら負うて顧みぬ・・(主君の身が安らかになるか危うくなるかという大事な秋〔とき〕に、その運命を自分の身に引受けて、自分の危〔あやう〕いことを少しもかまはない) 
 
・敢死隊〔かんしたい〕(この戦いの少し前に一般の人民から募った会津藩の兵隊)

・左翼〔さよく〕(列の左の方)

・戸の口原(猪苗代湖の西にあたる地)

・修羅〔しゅら〕の場〔にわ〕(戦場のこと。修羅は佛語にて大海の底にあり、鬼畜〔きちく〕が常に三十三天と戦うという)

・小兵〔こひょう〕(体の小さいこと)
 
・猛りに猛る(勇ましく叫びながら奮闘に奮闘をつづける)
 
・九牛〔きゅうぎゅう〕の一毛〔いちもう〕(たくさんな牛の中の一筋の毛、すなわち大勢に対する極めて小勢〔こぜい〕をいう)




『慶応〔けいおう〕戊辰〔ぼしん〕八月の、後〔のち〕の三日の東雲〔しののめ〕に、滝澤峠〔たきざわとうげ〕の嶮〔けん〕を越え、数ヶ所の疵に迸〔ほとば〕しる、血潮は踵〔くびす〕の跡を染め、敗軍なれば兵糧〔ひょうろう〕は、一粒だにも続かねば、飢えと疵とに疲れ果て、折れたる刀を杖として、飯盛山に攀じ上り、鶴ヶ城遥かに見渡せば、黒煙天に漲〔みなぎ〕りて、昨日に変る今日のさま、あはれ頼みもつき果てぬ、主君を初め奉り、我父母に今生〔こんじょう〕の、別れを告げんと跪〔ひざまづ〕き、涙ながらに伏し拝む、心の内は如何〔いか〕ならむ』


【註釈】
・慶応〔けいおう〕戊辰〔ぼしん〕・・慶応四年=明治元年、この年より明治と改めらる。戊辰〔つちのえ(土ノ兄)たつ〕の年に当たる。
・後〔のち〕の三日・・二十三日
・東雲〔しののめ〕・・夜明け方〔がた〕
・滝澤峠〔たきざわとうげ〕・・戸の口原〔とのくちはら〕より若松城へ退却する途〔みち〕にあり。
・飯盛山〔いいもりやま〕・・若松市厳島神社前の小高き丘、今は白虎隊士の碑あり。
・鶴ヶ城・・若松城を鶴ヶ城と呼び、猪苗代城を亀が城と呼ぶ。
・黒煙〔こくえん〕天〔てん〕に漲〔みなぎ〕りて云々・・これは城下の方々が焼けて居る火であった。少年たちはこれを見て已〔すで〕に城陥り〔しろおちいり〕、主君容保〔かたもり〕も自刃せられしものならんと信じたのであった。



『この時早く彼の時遅く、飯沼貞吉〔いいぬまさだきち〕懐中より、とり出〔い〕だしたる短冊は母の賜〔たま〕いし和歌一首、この世の別れと詠み上ぐれば、篠田義三郎〔しのだ・ぎさぶろう〕も忽〔たちま〕ちに、文天祥〔ぶんてんしょう〕が正氣〔せいき〕の歌、聲〔こえ〕朗らかに吟じたり』

【註釈】
・この時早く彼〔か〕の時遅く・・ちょうどその時

・飯沼貞吉〔いいぬまさだきち〕・・時衛一正〔ときえ・かづまさ〕の次男。出陣する時 母・文子〔ふみこ〕は「梓弓〔あづさゆみ〕むかう矢先〔やさき〕はしげという一首の和歌を与えて励ました。その短冊を襟に縫いこんで出陣したが、戦い敗れ同僚と共に飯盛山に自刃す。時に藩士の妻某女、我が子を探〔たづ〕ねて ここに来り、白虎隊士の死体中に未だ温味〔ぬくみ〕ある者を発見し、之を負うて瀧澤村の農家に至り、手厚く介抱したところ、やがて甦生するに至った。これが飯沼氏で白虎隊士殉難〔じゅんなん〕の様子は、氏〔し〕によって明らかにされたのである。氏は後に貞雄と名を改め、逓信技手〔ていしんぎて〕より技師〔ぎし〕になり、勤続数十年、今は隠退して仙台市にありという。

・篠田義三郎〔しのだ・ぎさぶろう〕・・・篠田兵庫〔しのだ・ひょうご〕の二男。この時十七才。父兵庫、叔父蔀〔しとみ〕氏、共にこの役に死す。

・文天祥〔ぶんてんしょう〕・・支那宋末の忠臣。宋の国が蒙古のために亡ぼされた時、文正祥は王子を奉じて奮戦したが力およばず捕らわれて燕京〔えんきん〕に送られ降服をすすめられしも頑として応ぜず、獄中にある事四年、最後に南に向かい再拝して刑を受けた。

・正氣〔せいき〕の歌・・文天祥〔ぶんてんしょう〕が獄中に作った有名な詩。忠烈〔ちゅうれつ〕の意気〔いき〕を千載〔せんざい=千年・長い年月〕に遺〔のこ〕すものである。




『手疵〔てきづ〕になやむ石田和助〔いしだ・わすけ〕は、篠田の聲〔こえ〕に莞爾〔かんじ〕と笑み、我も最後の吟聲〔ぎんせい〕を聞こえ上げんと高らかに、人生古〔いにしえ〕より誰〔だれ〕か死〔し〕無〔な〕けん、丹心〔たんしん〕を留取〔りゅうしゅ〕して汗青〔かんせい〕を照らさん、と之も同じく天祥〔てんしょう〕が、零丁洋〔れいていよう〕の一節を、吟じ終るや一刀を、小脇にぐっと突き立てて、ものの美事〔みごと〕に引き廻〔まわ〕す、篠田は之を見るや否〔いな〕、秋水〔しゅうすい〕逆手〔さかて〕に我が喉〔のど〕を、柄〔つか〕をも通れと貫〔つらぬ〕きぬ』


【註釈】
・石田和助〔いしだ・わすけ〕・・父・龍玄〔りゅうげん〕といい、村医より出世して侍医〔じい〕になりし人。和助はこの時十六才

・莞爾〔かんじ〕・・にっこりと

・聞こえ上げん・・お聞かせしよう

・人生古〔いにしえ〕より誰〔だれ〕か死〔し〕無〔な〕けん、丹心〔たんしん〕を留取〔りゅうしゅ〕して汗青〔かんせい〕を照らさん・・・人の世には古〔いにし〕えから、誰一人として死なないという者はない。それ故に、赤き誠心〔まごころ〕をこの世に残しておいていつまでも書物の上に輝かそう、との意。之は文天祥〔ぶんてんしょう〕が捕らわれて、船にて護送される時に、零丁洋〔れいていよう〕という所を越〔こ〕ゆる折〔をり〕に作った詩の一節である。

・秋水〔しゅうすい〕・・刀の名前




『さて又〔また〕林八十治〔はやし・やそじ〕、永瀬雄治〔ながせ・ゆうじ〕の少年は、兼〔か〕ねて交わり深ければ、冥土も共にと抱き合い、曳〔さい〕と一聲〔いっせい〕刺し違う、永瀬の突〔つき〕やにぶかりけん、林は側〔かたえ〕を見還〔みかえ〕りて、誰ぞ介錯〔かいしゃく〕を乞〔こ〕いければ、野村駒四郎〔のむら・こましろう〕飛び掛かり、忽〔たちま〕ち首を打ち落とし、返す刀でいさぎよく腹〔はら〕掻〔か〕き切〔き〕って果てにけり。その他もこれと前後して、いづれも年は蕾〔つぼみ〕なる、若木〔わかぎ〕の花を誘い来る、無情の風に打ち任せ、最〔い〕と目覚しく自害して、秋の錦〔にしき〕を織〔を〕る山を染〔そ〕むる血潮〔ちしお〕となりにけり』

【註釈】
・林八十治〔はやし・やそじ〕・・この時十六才、父は忠蔵〔ちゅうぞう〕といい、用所謹〔つとめ〕の士なり、

・永瀬雄治〔ながせ・ゆうじ〕・・祐筆〔ゆうひつ〕・永瀬丈之助〔じょうのすけ〕の二男、年十六。

・刺〔さ〕し違〔ちが〕う・・互に刀をもって刺し合い、いっしょに死ぬること。

・野村駒四郎〔のむら・こましろう〕・・野村清八〔せいはち〕の三男。年十七。

・年は蕾〔つぼみ〕なる、若木〔わかぎ〕の花・・年少〔わか〕きこと若木の花の蕾にたとえたのである。

・無情〔むじょう〕の風に打ち任せ・・花が風の吹くままに散ることにたとえて、少年たちが死する運命に任せしことを云う。

・秋の錦〔にしき〕を織〔を〕る山を染〔そ〕むる血潮〔ちしお〕となりにけり・・時は秋の初めなれば、山の紅葉〔もみじ〕が色づくことを錦織る〔にしきをる〕と云い、少年たちが自害した事を、紅葉を染〔そ〕むる血潮〔ちしほ〕になったと たとえたのである。


佐原盛純が詠んだ漢詩『白虎隊』が書かれていますが、一部異なるところがありますが、本書の記載のまま掲載いたします:


『少年団結す白虎の隊、
 国歩〔こくほ〕艱難〔かんなん〕保塞〔ほうさい〕を戍〔まも〕る、
 大軍突如風雨来る、
 殺気惨憺〔さんたん〕白日晦〔くら〕し、
 鼙皷〔へいこ〕喧闐〔けんてん〕百雷震〔ふる〕う、
 巨砲連発僵死〔きょうし〕堆〔うづかた〕し、
 殊死〔しゅし〕陣を衝〔つ〕いて怒髪〔どはつ〕竪〔た〕つ、
 縦横憤激一面開く、
 時に利あらず戦い且〔か〕つ郤〔しりぞ〕く、
 身に瘡痍〔そうい〕を裏〔つつ〕み口に薬を喞〔ふく〕む、
 腹背〔ふくはい〕皆〔みな〕敵〔てき〕将〔まさ〕に安〔いづ〕くに之〔ゆ〕かんとす、
 剣を杖ついて間行〔かんこう〕丘嶽〔きゅうがく〕を攀〔よ〕づ、
 南に鶴ヶ城を望めば煙焔〔えんえん〕颺〔あが〕る、
 痛哭〔つうこく〕涙を飲んで且つ彷徨〔ほうこう〕す、
 社稷〔しゃしょく〕亡びぬ以て止〔や〕むべし、 十有九人腹を屠〔ほう〕って死す、
 俯仰〔ふぎょう〕す此の事十七年、
 之を畫〔ゑが〕き之を文〔ふみ〕にし世間〔せいかん〕に傳〔つた〕う、
 忠烈赫赫〔かくかく〕前日の如く、
 圧倒す田横〔でんおう〕麾下〔きか〕の賢』



【註釈】
・国歩〔こくほ〕艱難〔かんなん〕・・国の状態が困難である事。すなわち官軍より攻められんとする会津藩を指す。

・保塞〔ほうさい〕・・城、砦〔とりで〕

・白日・・太陽

・鼙皷〔へいこ〕喧闐〔けんてん〕・・軍勢を進める太鼓の音が騒がしく響くこと

・僵死〔きょうし〕・・倒れし死骸

・殊死〔しゅし〕・・必死になること

・怒髪〔どはつ〕竪〔た〕つ・・怒りに髪が逆立つ

・瘡痍〔そうい〕・・傷、疵〔きず〕

・間行〔かんこう〕・・抜け道を通って行く

・痛哭〔つうこく〕・・声をあげて泣き悲しむこと

・彷徨〔ほうこう〕・・行ったり来りすること

・社稷〔しゃしょく〕・・國

・腹を屠〔ほう〕って・・腹を切って

・俯仰〔ふぎょう〕す・・下を見、上を見る。すなわち後先の事を思い合わす意に用いる

・赫赫〔かくかく〕・・大いに盛んなる状〔さま〕
・前日の如く・・その時の通り

・田横〔でんおう〕麾下〔きか〕の賢・・田横〔でんおう〕は齊〔せい〕の臣。漢の高祖が天下を統一した時、その徒五百人と海島〔かいとう〕に立て籠〔こ〕もった。高祖は田横に、味方につけば王侯にしょう、然〔しか〕らずんば【=さもなければ】攻め滅ぼすぞと云った。田横は降〔くだ〕るを潔〔いさぎよ〕しとせず、洛陽に走って自殺した。之をきいて海島〔かいとう〕の五百人は悉く殉死した。


【大意】
 会津藩の少年は団結して白虎隊を編成していた。時しも國が非常に困難な立場に陥〔おちい〕り、城を守って戦わねばならぬ事になった。たちまち薩摩と長州の大軍は暴風雨のように押し寄せて来た。殺気漲〔みなぎ〕り、惨憺〔さんたん〕たる戦場は、太陽の光さえも暗くなった。敵軍の攻め太鼓の音は百雷の轟くがごとく。大砲をしきりに打ち出して、味方の倒れた死骸は堆〔うづたか〕くなった。時に白虎隊は必死になって敵陣を衝き、怒髪〔とはつ〕逆立〔さかだ〕ち、縦横に奮撃してようやう敵の一方を斬り開いた。しかし味方は敗れ、戦いながら退却した。體〔からだ〕には手傷〔てきず〕を受け、疲れ果てた気力を保つために、口に薬をふくんで辛〔かろ〕うじて歩むのであるが、前も後もみな敵である、どちらに行ったらよいであろうか。剣を杖にして裏道を通って瀧澤峠を越え、飯盛山によじ上った。南の方〔かた〕に若松城を望めば、煙や焔〔ほのお〕が盛んに上って居る。已〔すで〕に城は落ちたのかと、声をあげて泣き、涙をのんで丘の上を行ったり来りしていた。しかし、國はもう亡びた、自分たちのなすべき事も之〔これ〕で終ったというので、十有九人が腹を切って死んだ。
 思い起せばこの事は十七年前の出来事である。(この詩の出来たのは明治十七年である。昭和二年は白虎隊の六十年回忌にあたる。)この時の事を絵に描いたり、文章に書いたりして世間に伝えて居る。白虎隊の忠烈は、赫々〔かくかく〕としてその当時の通りに輝いて居る。彼〔か〕の、支那の田横〔でんおう〕の麾下〔きか〕にあった五百人の人たちの義勇も、白虎隊には遠く及ばないのである。



『萬世〔ばんせい〕不朽〔ふきゅう〕の白虎隊、名も芳〔かんば〕しい足引〔あしびき〕の、大和櫻〔やまとさくら〕の花と散る、その真心〔まごころ〕の紅〔くれなゐ〕は、紅葉〔もみぢ〕に恥じぬ若葉ぞと、惜しまぬ者こそなかりけれ、なかりけれ』

【註釈】
・萬世〔=万世 ばんせい〕不朽〔ふきゅう〕・・いつまでも朽〔く〕ちることのない、永久の伝えられること。【易爺:なに朽ちるがわからん・・山に入って朽木〔きちき〕を見て来なさい】

・足引〔あしびき〕の・・「やま」にかかる枕詞

・その真心〔まごころ〕の紅〔くれなゐ〕は、紅葉〔もみぢ〕に恥じぬ若葉ぞと・・若葉の紅〔あか〕いのが、紅葉の紅いのにも負けないように、白虎隊の少年たちの忠烈は、大人〔おとな〕も及ばない、との意。

    ×  ×  ×

 今年は慶応四・明治元年・戊辰の歳からちょうど150年になるので、この当時の世界史や日本の歴史について調べることがよくあります。
 最近も根本通明先生が参戦した戊辰戦争について調べています。小生は奥羽地方には不案内なものですから、伊能忠敬の日本地図を見ながら調べています。先月の幸田露伴の『突貫紀行』もこの地図をみながら読むとよく解かります^L^

 この白虎隊の十九人の自刃の後、会津戦争は一ヶ月ほど続き、明治元年九月二十二日、現在の暦では11月6日に会津藩は降伏します。その二三日後に庄内藩が恭順の意を示す、ということになります。

 どちらも天皇を仰ぎ奉るという誠心は同じですが、官軍と賊軍として戦うということになってしましました。
 今年は戊辰戦争から150年ですから、年末まで残り少ない日々ですが、久保田藩の根本通明先生のことをブログで書こうかな、と考えています。

 来る10月12日(金曜日)は明治天皇の即位の禮の日です^L^ 

 きょうは久しぶりに幼い頃にかえって『白虎隊』の歌を大きな声で歌いましょう^L^


白虎隊

 作詞 島田磬也
 作曲 古賀政男
 詩吟 荒 国誠
 歌  緑咲香澄


戦雲晦〔くら〕く陽〔ひ〕は落ちて
孤城に月の影悲し
誰〔た〕が吹く笛か識らねども
今宵名残の白虎隊


紅顔可憐の少年が
死をもて守るこの保塞〔とりで〕
滝沢村の血の雨に
濡らす白刃〔しらは〕も白虎隊


飯盛山の山頂〔いただき〕に
秋吹く風は寒えれど
忠烈今も香に残す
花も会津の白虎隊
花も会津の白虎隊

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