◆10月2日安政の大地震の日・・・呑象先生、易占で大儲け

◆10月2日安政〔あんせい〕の大地震の日です
 正確には安政2年10月2日【1855年11月11日】の午後10時ごろ関東南部で発生した大地震です。
 この大地震で、24歳の高島嘉右衛門先生は二十万両・・・現在のお金に換算すると過小評価しても20億円の大金を儲けたそうです。
 その経緯を紀藤元之介先生は著書『乾坤一代記』のなかで次のように書いています:
◆釜鳴り〔かまなり〕

 高島嘉右衛門は、当時にはめずらしいくらいの現実主義者で、あまり怪異なことにはふれようとしなかったが、その体験談の中には、
「世には一種人智の及ばぬ変ったことがある」
 と本人も云っているようなことが、いくつかあった。

 安政二年【1855年】といえば、かれがまだ二十四の時のことだ。この年十月二日に、江戸に大地震がおこった。藤田東湖や戸田淡窓など知名の士がおしつぶされて死んだのも、この地震で、江戸の死者は六千七百人にものぼったという。

 嘉右衛門は地震を予知したわけではなく、そのおこる幾日かまえに、弟の徳右衛門が
“釜鳴り”をきいたというのでたいへんなことが起りそうだ、とカンをはたらかせ、気ちがい【易爺:?!w】のようにかけ廻って、大当【おおあたり】でしたという。

 九月下旬のある夕方、大名屋敷など出入り先きを廻りおえて帰宅したかれに、

「今日はフシギなことがあったよ、兄〔あん〕ちゃん」
 と、おもてを掃除していた弟がいう。
「ほほう、どんなことだ」
「いやァ、おふくろさんが、兄〔あん〕ちゃんが気にするといけないから、話すなといったから、いえないよ」
「そうか、まァ風呂にでも入りにいこう」

 二人連れだって風呂屋へゆく道で、弟は話したくてたまらない様子。

「でもフシギだなあ」
 とくり返す。
「なにがあったんだ」
「云えないよ」

 ますますおかしいので、着物を脱ぎながら、
「徳、おれは一家の主人なんだぜ。うちに起こったことを知らないですましているわけにはゆかない。いったい何があったんだ。おふくろには、おめえからきいたとは云わねえから話せ」
 兄貴の威厳をもって、問いただす。

「全くフシギなんだ。これは近所の人もみな知っているんだが、うちの大釜が鳴り出したんだよう。釜はへツッイ【易爺:かまど】にかけであったんだが、べつに燃やしてやしないし、研【と】いだ米をしかけてあっただけなんだ。それがエライ勢いでうなり出したから、皆おどろいてしまった。兄ちゃんどうしてだろう?」
 と、遂々しゃべってしまった。
 嘉右衛門はおどろいて、
「そりゃァ大変な事のおこる前知らせだ」
と、一旦裸になったのに湯にも入らず、また着物を引っかけて急いで家に帰った。

 早速 居間へ入って、当時はまだ未熟だったが、父親がなぶっていた筮竹をとって、
「どんな変事がおこるのか」
 と占ってみた。
 易は、家のうえに火の手があがっている火山旅〔かざんりょ〕というのが出た。かれの目には、算木〔さんぎ〕が紅蓮の炎をあげているように見えた。一種の神がかりである。
 見るなり、
(こりゃァ大火事だ)
と判断した。材木屋にとっては千載一遇の機会だ。
(こうしちゃいられねえ。一儲けしなけりゃ・・・それにしても先立つものは金だ! よし鍋島様【易爺:鍋島藩江戸邸】へいって借り出そう。こんなときに儲けなければ、儲けるときはない)
 と、張り切った。いわば神がかりである。

 ふつう釜鳴りというのは、釜の中の蒸し器に仕かけがしてあって、水が煮えたてば鳴り出すようになっている。行者や稲荷おろしでこの細工釜〔しかけがま〕を使い、音で吉を占い、法力【ほうりき】だといって善男善女を驚ろかすのがいる。

 しかし遠州屋で起こった釜鳴りは、だれかが“釜鳴りの秘法”とかいうものをやってみせたわけではないから、タネもシカケもない。これを不思議と感じたのは当たり前のことだ。・・・が、かれが火山旅という易を得て、算木〔さんぎ〕にありありと大火事の画象を見たというのは、とくべつの感能で、異常である。

 それはともかく・・・。
 提灯【ちょうちん】片手にすぐかけ出したかれは、鍋島藩邸へ飛びこんだ。閑叟〔かんそう〕侯お側用人 井上善兵衛をたずねたのである。鍋島家では、毎年十月から翌年九月までを一期とし、国元から予算がきていて、その定額経費の範囲内で一年をまかなうことになっていて、手堅い経営をモットーとしていた。
 諸掛で予算を残したものは褒賞を与えられ、使い過ぎたら左遷するという制度もあった【易爺:いまの日本と大違いw】。だから江戸詰めの幹部は予算を残すことにけんめいで、邸には充分な遊金がつねにある。
 これに眼をつけたかれは、善兵衛に向い、
「友だちが山から木を切り出し、めっぽう安く手にへえります。しかし それには千両【易爺:一両=10万円として1億円】ほど手金【手付金】を入れなけりゃなりません。どうせ御普請を請負うとき、さッぴいてもらやァいいでしょうから、ひとつ貸しておくんなせえ」
 と申しこんだ。

 井上善兵衛から借りる約束ができると、かれは急いで木場に向った。・・・嘉兵衛はこんなときでもぬかりがない。遠州屋の屋号の入った提灯【ちょうちん】をつけてゆくと、
「大名屋敷の急普請でも請負ったな」
 と足もとを見られ、高値を吹っかけられる恐れがあるから、途中で他家〔よそ〕の提灯を借りて、材木問屋をかけ廻ったのである。

 その頃の江戸は、一般に不景気で、材木の値は安かった。
紀州新宮の杉五寸角一丈四尺の上物が、一両で十六本半。
杉の四分板は一両で百十枚。
松の六分は百五枚といった値で、ただみたいなものだった。

 当時の物価は、
酒一升百五十文から三百文。
米一升五百文。
妾の月の手当が三分、
女中の年給三両、
そば十六文
、といった頃だ。

 ところで遠州屋嘉兵衛、
(こいつでひとつ当てりゃァ、紀文や河村瑞軒と肩をならべられる)
 と思ったから、買つけして、問屋の手代が荷数を調べているひまに表へ飛び出し、
(どっかに火の手はあがらねえか)
 と、あっちこっち見廻す。
 買付けは堅い大店〔おおだな〕ばかりをえらび、品物は、焼け跡の急場に間に合えばいような、安物を買いまくった。・・・これで一万両にもなるか、と勘定してみるとまだ七千両ぐらいにしかならない。

(ようし、あと三千両。朝のうちに買いしめてしまおう)
 と決め、朝起きてみると天気に変りはなく、昨日のように晴朗平穏だ。なにか狐につままれたようなあんぱいだから、

(こりゃァ ひとつまちがったら、とんだことになるゾ。材木の値をつりあげるため、まさか火をつけて歩くわけにはいくめえし)
 と心配になってきた。鍋島藩から借り出した千両を、手金としてくばって歩いたあとは、“おこり【易爺:瘧〔おこり〕=悪寒や奮えをともなう熱病】”が落ちたようになって、
(あの易はまちがいじゃないだろうか)
 という疑いがあたまをもたげてきて、分不相応な大買付の処置に考えあぐねた。
(これがはずれたら、一家眷族宿なしになるんだ、どうしよう)
 と思い余って、月末近くのある夕方、菩提寺の高輪泉岳寺へ行き、父親の墓に線香を上げ、その線香の火でたばこを吸いつけ、しばらく墓石のそばで考えこんでいた。すると朝夕二度のお勤めに、必らず墓地をめぐる和尚がやってきて、

「薬師寺さんどうしました?」
 と温顔をほころばしてきく。
「それがどうもヒドイおもわく違いをやらかしちゃったようなんで・・・」
 仕方がないので、いちぶしじゅうを物語った。
「ほう、火山旅という易にあいなさったか。今日が四日目で、四爻〔しこう〕、明日が五爻〔ごこう〕。そうだな、あさってがお前さんの勝負の日じやろう。鳥その巣を焚かれるというからな。今日墓詣りなされたのはいいことだ。まあしっかりおゃんなされ」
と励ましてくれた。

   ×  ×  × 

 結果は、ちょうど上爻にあたる十月二日の午後十時ごろ江戸建都以来の騒動といわれた安政の大地震が起き、市内二十七ヶ所から出た火が一面にひろがり、江戸自慢のいろは火消も手のつけようなく自然鎮火を待つばかりだったそうです。

 嘉右衛門・呑象先生は、
 鍋島家の急普請は、ごく安上りに仕上げて感謝されたが、残木で二万両ほど儲け出したのである。まえに人相見の朝元斎 山口千枝が、「三十までに一万両ぐらの分限者〔ぶげんしゃ〕になれる」と予断したのと思い合せてみると、二十四で二万両【易爺:現在のお金にすると20億円から40億円の間】つかんだのである。かれが、
(世間は甘いもんだ)
 とふんで、思い上ったのも無理はない。それにしても“釜鳴り”と、そぼくな“易占”とで一ヤマ当てたのだから、のちに、
「偶然大地震にめぐりあって、僥倖の巨利を博したが、これも間違いの良いほうに間違っただけのことだ」
 と述懐しているとおり、全く冒険である。しかし かれがいろいろな事業に、大きな関心を抱くようになったのは、この神がかり的事件を契機にしてであったから、特筆しておく価値はあろう。

   ×  ×  ×

 火山旅の卦は:
画像


 下の☶艮を「家・建物」とみて
 上の☲離の正象は「火」ですから、
火事だとみるのが普通です。
それも卦象は山上の火ですから自然鎮火を待つしか仕方ないと観ることができます。
 九月晦日に御墓詣りに云ったのが「其の資斧を得る」で善かったようですね^L^

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