きょうは『教育勅語』発布の日・・高島呑象翁の「教育の本原」

◆きょう10月30日は『教育勅語』が発布された日です。
ちょうど127年前の明治23年【1890年】10月30日に発布されました。

 明治4年【1870年】に文部省が設置され、学制を頒布し各地に中学校・小学校を設け、全国の6歳以上のすべての男女が学校へ通うことになりました。

 同時に府県に師範学校を設置して小学校の教員を養成することにしました。これによって教育は普及し民智が開発されました。

 「しかし、その学制も教育方法も主として西洋の風を移し、深く我が國柄について考えるところがなかったから、國民教育として不完全なる点が多く、かつ智育のみに偏重して徳育を軽んずる傾きがあった。よって明治二十三年十月天皇は総理大臣・山縣有朋、文部大臣・芳川顕正を召して、教育に関する勅語を下し給うた。これにより國民教育の方針定まりて人々皆その據〔よ〕るべき所を謬〔あやま〕らざるに至った。」【萩野由之著『日本史講義』より】

◆わが敬愛する高島嘉右衛門先生も、明治二十三年に国民の道徳の低下を憂い歎いて「道徳の本原〔ほんげん=本源〕」という演説をしています。
 これは、明治二十三年文部省の教育の方針を占って得た火沢睽〔かたくけい〕九二の占事により、高島呑象翁が時の総理大臣・山縣有朋に具申したものだそうです。

◆この教育勅語の経緯について紀藤元之介先生が『高島嘉右衛門を見直そう【33】』で詳しく書いていますので紹介いたします。
『実占研究』昭和41年12月号に掲載されたものです:

   高島嘉右衛門を見直そう【33】

    閑話【二】 教育勅語    紀藤元之介


 高島嘉右衛門という人は、もともとは“才人”だった。若いときは「小才が利いて」いた。そのため世間を甘く見、人を人とも思わぬ傾きがあった。ところが、例の小判密売事件で、増長慢の鼻を折られ、ハッと気付いた。この気付き方が、早かった。かれは、易を勉強し、その教えにしたがって、鈍器たろうと努めた。才人だから才に溺れて、身を過つことが目に見えていたから、逆に出たのである。易は、一般に「功利的なもので、何かトクすることがあれば、我勝ちに先きを争って取ろうとする早わざを教えるもの」のように思われがちであるが、それはほんの一面にしかすぎない、ということを嘉右衛門は悟ったのである。小賢しい連中はたくさんいる。小利を狙って汲々としている。そんなのと伍していくのが、いやになったのだろう。小手先きの早業(はやわざ)を競ったところで何になろう。

 明治二十三年といえば、かれもすでに五十代の終りである。教育勅語が下された。若い日本人に対する教育の大指針である。が、この勅語を換発しなければならない状勢にあったことも事実である。


 (いまは時勢が時勢で「紀元節復活をねがう軍国主義者どもがいう建国記念日制定などは、民意に反する」などという連中が多く、ここにこんなことを書くと「酔狂な」と非難されるかもしれないが、多くの人々の手許にはもう見えなくなっているかも知れないので「教育に関する勅語」をここに謹記しておこう。どうも私は反動らしい(呵々)が、笑いたければ笑へである)

画像


 このなかに説かれている教えは、明治・大正の日本人の胸底深く浸みこんでいるが、戦後の人々にとっては無縁の御託と見られがちである。


 それはともかく、高島嘉右衛門は、明治二十三年に、彼流に道徳の低下を憂い嘆き、次のような演説をぶったのである。
 道徳の本原

 余は元来商業家なる故、平素物価の高低には、頗る注意する所なるが、近年来、人間の相場の非常に下落せしには、殆んど一驚を喫したり。
 乃〔すなわ〕ち何とかして此〔こ〕の相場を引上げんと、常に、心を痛ましめたれども、未だ卑見を諸君の前に吐露するの機会を得ざりき、今幸いに馨咳〔けいがい〕に接す、
 乃ち陳べて以て大賢の高評を仰がん。

 この「道徳の本原」は、実はかれが当時の総理大臣、山県有朋に具申したもので、次のような占いが、これを云わしめたのである。


◆明治二十三年文部省教育の方針を占い 



火沢睽二爻

筮して睽の第二爻を得たり
爻辞に曰〔いわ〕く、
「九二は巷〔ちまた〕に王に遇〔あ〕う、咎〔とが〕无〔な〕し。」

断に曰く、

 睽〔けい〕の卦たる、火の性は升〔のぼ〕り、沢の性は降る。彼我〔ひが〕相〔あい〕背〔そむ〕くを以て、名〔なづ〕けて睽と曰う。今教育の方針を占い、此〔こ〕の卦を得る。
 例えば本邦〔ほんぽう〕固有の教育は道徳を以て基本とし、文部省の教育は欧米に則〔のっと〕り、智と理とを専らにし、我が建国の教育と、現時〔げんじ〕の教育と異なれり。
 故に睽と曰うなり。文部省に於〔おい〕ても、其の始め彼【かの国:外国】の長【=長所】を取り、我が短【=短所】を補うの策に出でたりしが、我が国体を知らざる者、彼の国に留学し、帰朝の後、教師と為りて、子弟を教育するが故に、其の薫陶〔くんとう〕を受けたる者は、我が国古来〔こらい〕君臣〔くんしん〕の義を立て、名分を重んじ、宇内〔うだい=世界・天下〕に卓立〔たくりつ=ぬきんでること〕せる教育の基を知らざるに至る。是れ彼の長短を共に取りて、我が長短を共に失うなり。故に君子は義を犯し、小人は刑を犯し、恬然〔てんぜん〕として共に耻【=恥】じず。心ある者、誰か之れを悲まざらんや。余も亦忍ぶ能わざるを以て、
明治二十三年十月十八日、山県総理大臣に謁を請い、間を得て少しく陳述する所あらんことを請いしに、当日は諸県の知事も参邸せし者あり。
 大臣・余を其の席に延く【ひく=まねく】。余乃ち左に記する【=上記の】「道徳の本原」なる一篇を演述せしに、列席の人に論なく、大臣も耳を傾けて之れを聴き、其の畢〔おわ〕るや、大臣・撫然〔ぶぜん〕たるもの久し。
 暫〔しばら〕くして曰く。
「子【し=あなた】の論ずる所、時弊【その時代の悪弊】に適切にして、一々肯綮【こうけい=急所・かなめ】にあたる。感嘆に堪えざる所なり。余も芳川文部大臣に面せば、尚告ぐるに子の講義を聴くべきことを以てすべし。子幸いに文部省に至り、芳川氏に面接し、具〔つぶ〕さに其の主旨を述ぶべし。」
 因りて余は即日踵〔きびす・かがと〕を一転じて、文部省におもむき、大臣に謁して、更に之れを上申せしに、同月三十日、山県・芳川の両大臣を召させられ、教育の勅語を下されたり。
 是れ余が輩【ともがら=仲間】、国家教育を思う至誠の衷情【ちゅうじょう=ほんとうの心】、遥かに天に通じ、勅語の忝〔かたじけな〕きを拝するに至りでは、あたかも天顔に咫尺〔しせき〕するが如く、所謂「遇主于巷・・・主に巷に遇う」ものにして、文部省及び全国の教師も、図らず此の「勅語」を奉戴〔ほうさい〕し、為めに教育の方針を過たざるは、象伝に「未失道也・・いまだ道を失わざるなり」の謂いなるべく、易理の神妙なること、けだし此の如し


 前記のように、かれが当時の総理大臣およぴ文部大臣に、深い感銘を与えた日から十二日後に、教育に関する勅語が換発されたことは、注目にあたいする。かれは、どういうことを云ったか、かれの嘆きは現代にも通じるように思うので、「大賢の高評を仰がん」と云ったあとを、ここにつづけてみたい。
(但し、スペースの都合で、次号に続く。)


 凡〔おおよ〕そ世人が他人の美事善行を見て、心之れを感賞し、他人の悪事醜行を聞きて、心之れを賎悪するは、人間相場の貴き徴候とす。

 之れに反して、他人の美事善行を見ても、心之れに応ぜず、他人の悪事醜行を聞きても、心之れに感ぜざるに至りでは、人間相場の下落せる徴候なり。

 況して私慾〔私欲〕を逞〔たく〕ましくして世を欺き人を掠〔かす〕むる破廉恥漢〔はれんちかん=はれんちなヤカラ〕を指して、かれは才子なり、其〔そ〕の手際〔てぎわ〕嘉みすべし【喜ぶべし・褒めたたえるべし】などと称賛して、心ひそかに其の所為に傚〔なら〕わんと企つる者【易爺:こんどの選挙で、枝野を“筋を通した”と褒めたたえるヤカラのことw】あるに至りては、人間相場の最下落にして、殆んど世・禽獣の価値と隣りを為すの徴候す【前兆である】。

 今や最下落の徴候は滔々【とうとう】たる世間に、たやすく之れを見るに至る。道徳の衰頽〔たいはい〕も亦甚〔はなはだ〕しからずや。

 夫〔そ〕れ人心品位の騰貴と下落とに因りて、社会に及ぼす影響は、実に広大至極にして、決して彼の米相場の一上一下を以て、社会に及ぼす影響の如き者にあらず。
  

◆いまこそ、教育勅語の精神を復活させるべき時であると易爺は思うのですが・・・。
 学校が無理なら個々人が家庭で子供たちに教えないと、日本は欧米と同じ品位のない国柄になってしまいます><; 

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