◆日本海海戦の日・・・山本権兵衛の功績

◆日本海海戦の日・・・山本権兵衛の功績
きょう5月27日は『日本海海戦の日』です。

ちょうど112年まえの明治三十八年【1905年】のきょう、日露戦争で東郷平八郎が率いる日本連合艦隊と ロシアのロジェストウェンスキー司令長官が率いるバルチック艦隊とが対馬沖で戦った「日本海海戦」が始まった日です。戦いは5月29日7時すぎに日本連合艦隊の勝利で終りました。

司馬遼太郎先生の『坂の上に雲』から、戦いの推移をまとめてみました:

・5月27日
 2時45分:仮装巡洋艦“信濃丸”が長崎五島列島西方海上にバルチック艦隊病院船を発見し、
 4時45分:“信濃丸”より「敵艦見ゆ」の打電
 6時21分:東郷司令長官、大本営に
       「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。
        本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電
 10時08分:東郷長官、荒天のため水雷艇を避泊させ、
 10時30分:連合艦隊第3、5、6戦隊がバ艦隊発見、並走する。
 11時00分:戦艦「アリョール」が第3戦隊巡洋艦に砲撃、
 12時00分:バ艦隊、対馬東水道中央に進む、
 13時39分:“三笠”など連合艦隊主力がバ艦隊発見、
 13時55分:「皇国の興廃、此の一戦に在リ」とZ旗を掲揚する。

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 【この旗艦「三笠」に掲揚されたZ旗は トラファルガー海戦の例に習い、
 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」
 という意味を持たせて掲揚したもの。
 この文案は連合艦隊参謀の秋山真之であるとされている】

 14時05分:“三笠”を先頭に「取舵旋回(丁字戦法)」 
 14時08分:バ艦隊砲撃開始 
 14時10分:連合艦隊砲撃開始、距離6千メートル 
 14時50分:バ艦隊旗艦「スワロフ」炎上、落伍 
 15時07分:戦艦「オスラービア」沈没 
 16時30分:バ艦隊、進路を塞がれ南へ転針する。
 17時30分:ロジェストウェンスキー司令長官が負傷、スワロフから駆逐艦「ブイヌイ」に退避する。 
 19時28分:東郷長官、追撃中止指令。

・5月28日 
 5時20分:連合艦隊、残存バ艦隊を欝陵島沖で発見 
 10時30分:ネボガトフ少将旗艦「ニコライ1世」、戦艦「アリョル」など、包囲、降伏へ 
 16時45分:ロ長官移乗の駆逐艦「ベドーウィ」包囲、降伏へ(ロ長官は佐世保へ)

・5月29日
 7時すぎ:巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」沈没、戦闘はすべて終了。

◆司馬遼太郎先生は『この国のかたち(六)』のなかで、日本海軍の歴史について次のように書かれています:

 旧幕のころ、幕府をはじめ諸藩が、小規模ながら艦船をもっていた。
 明治初年、政府はそれらをかきあつめて日本海軍の体裁をとったが、実態はかぼそかった。
 一方で、国産による建艦は、着実に進んでいた。このあたり、技術好きの国民性がよくあらわれている。
 明治九年【1876年】、小さな国産軍艦「清輝」が横須賀で竣工した。木造風帆蒸気艦で、898トン、15センチ砲を一門だけもつという粗末な軍艦だったが、それでも三年後に世界一周航海をやって、新興国らしい心意気をみせた。
 明治二十年代に入ると、艦艇がややそろって、二流ながらも、海軍らしくなった。
 ただ海軍当局の人材は玉石混淆〔こんこう〕し、旧幕海軍や旧薩摩藩など諸藩の海軍にいた者のうち、実力もないまま、いわば位階俸禄をむさぼっている者も、すくなからずいた。


 ここで、改革者としての山本権兵衛が登場する。
 その後、日露戦争までの海軍は、ほとんどかれ一人の頭脳と腕力で建設されたものといっていい。
 権兵衛の年譜をみると、大佐になるまでのほとんどの歳月を海上勤務ですごした。明治十年【1877年】、二十六歳、少尉のとき、ドイツ軍艦ヴィネタおよび同ライプチッヒに乗り組み、世界周航した。いわば徒弟奉公のような留学だった。
 この経験が、権兵衛にとって貴重だった。かれはとくと【Hiroに?】ヴィネタ号の艦長フォン・ラモント大佐を尊敬し、艦の運用から軍政、それに一国の政治経済のことまでこのプロシャ貴族から学んだ。
 権兵衛は、故郷である薩摩の甲突川のほとりでの少年時代、とくに秀才だったという評判はなかったが、その緻密で卓越した思考力と、すきとおっ

た合理主義、さらにはみずから一判断に達すれば容赦なく実行するという精神は、のちに養われたものといっていい。 容貌は、若いころも老いてからも、豹のような面構〔つらがま〕えだった。独特のユーモアもあったが、他者にはむしろ峻烈な皮肉にきこえた。


 ときに世界は海洋の時代に入っている。このため、地理学的に、朝鮮半島が、玄界灘一つをへだて日本列島の脇腹をおびやかす形状を呈するようになった。その上、朝鮮国そのもの政治形態は上代のままで、力をもたなかった。さらには朝鮮の宗主国である清国は、従来の好もしい礼教的な超然主義から、西欧的な属邦にちかい干渉をこの国に及ぼすようになって、日本の危機感覚を増幅した。
 一方、ロシアは、帝国主義的野心に満ち、朝鮮を影響下に置こうとしていた。
 明治日本の危機意識は、つねにその中心に朝鮮の帰趨〔きすう〕があった。このことはさまざまな意味で、のちの日韓(朝)関係の不幸をつくる。
 そのことはさておき、山本権兵衛が軍政を担当したのは、かれに海軍を一新させたいという政治レベルの判断があったからにちがいない。


 権兵衛が海軍大臣官房主事になったのは、四十歳、明治二十四年【1891年】のことで、このとし、日本の朝野が、清国海軍の圧倒的な示威運動によって狼狽させられたのと無縁ではなかった。
 清国の海軍建設の出発は日本より遅れていたが、大国だけに最初から世界第一流の大艦をそろえていた。この明治二十四年七月、その北洋艦隊六隻が、名を親善に藉〔か〕りて長崎、呉、神戸を経、東京湾にその威容を示威した。
 とくに旗艦定遠と鎮遠という装甲艦は、ドイツで建造され、7335トン、主砲が30.5センチ四門で、この二隻だけでも貧弱な日本艦隊が総がかりになっても及ばなかった。
 ロシアも、同様の示威運動をした。これより二カ月前、ロシア皇太子が来日したとき、六隻の艦隊をひきいて、その実力を貧弱な海軍国の日本に示した。


 一介の大佐だった山本が海軍建設にほとんど独裁的な辣腕をふるうことができたのは、海軍大臣に西郷従道〔つぐみち〕を戴いていたからだった。

いうまでもなく従道は大西郷の実弟で、維新生き残りの元老であり、廟堂での政治力は十分以上にあった。山本の立案は、諸事西郷が実現した。
 ただ、明治二十六年【1893年】、山本がやった一大人員整理だけは、従道も驚いた。無能老朽の将官八人・・多くが同郷の薩摩人・・に、佐官、尉官をふくめて八十九人のくびを切り、かわって海軍兵学校(兵学寮〉の人材を海軍の中心に置いたのである。


 日清戦争は、その翌年【1894年】におこる。
 清国の提督了汝昌は日本側との早期決戦を求めた。
 日本側もとより早期決戦を求め、互いに求めあって黄海で実力が遭遇した。
 日本側十二隻、清国側十四隻で、かれが多くの甲鉄艦をもつのに対し、日本側は一隻しか甲鉄艦がなかった。大砲の大口径においても日本側は劣っ

ていたが、ただ平均速力においてまさっていた。
 清国側が横ならびの単横陣をとったのは、海上の一大砲台としての定遠・鎮遠の大口径砲に卓越した力を発揮させるためだった。
 これに対し、日本側は、一本の棒のような縦ならびの単縦でもってまっしぐらに北進した。
 海戦四時間半、この間、横ならびの清国側は動きがすくなく、一方、単縦陣の日本側は敵とすれちがってはひきかえし、執拗に敵の各艦の周辺にあって打撃をあたえつづけた。その運動と打撃を可能にしたのは日本側の速力の優勢と、小口径の速射砲の活用にあった。
 速射砲は敵にたとえ致命傷を与えなくても、多量の小損傷をあたえつづけて その戦で相手の戦力を麻痺させる効があり、この戦法は山本権兵衛の立案ではなかったにしても、かれにおいてまとめられたものだった。
 大艦定遠・鎮遠は無力化したま清国艦隊は大敗し、旅順港に逃げ、さらに威海衛の奥に籠り、降伏した。

 ・・・司馬遼太郎著『この国のかたち(六)』「歴史のなかの海軍(四)」より・・・

     ×  ×  ×

 日清戦争の十年後の1904年に、日露戦争がおこり、その十年後の1914年に第一次世界大戦がおこります。

◆いまYahoo!知恵袋のなかに次のような質問があります:

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14174374689
 この姓名判断サイトで宅間守と入れて結果を見ると凄い幸運で、東郷平八郎と入れるとメチャクチャ運が悪いんですが、何でですかね? (笑)


「皇国の興廃この一戦にあり」の連合艦隊司令長官 東郷平八郎大将と宅間守と一緒にするな!!!と憤りを感じるフザケタ質問ですが、小生の易による姓名占なら、そんな結果にはなりません。

・東郷平八郎大将の卦は



火地晋の五爻です。
五爻の尊位にあり、中を得ています。
まさに、「皇国の興廃この一戦にあり」の日本海海戦の連合艦隊・司令長官である東郷平八郎大将にふさわしい得卦です。

・宅間守のほうは



沢水困の上爻です。爻辞は葛藟に苦しむ。ここに臲【几危】。曰く動けば悔ゆ【行動すれば後悔することになる】悔い有りて征〔ゆ〕けば吉とありますが、彼には後悔することは皆無、上爻の兌口を開ければウソブキ・おのれ自身をも欺すような行動が多くとうてい征けば吉とはなりえません。変じれば、天水訟で先を競って人と争いをおこす危険性があり、悔い改めないと世間からは疎まれる可能性があります。


・因みに海軍大臣・外務大臣・内閣総理大臣を歴任した山本権兵衛伯爵の得卦は



地水師の四爻。師は戦いの卦です。尊位の五爻は明治天皇が居られ、四爻には補佐役の山本権兵衛、二爻は師の主爻で現場の指揮官である東郷平八郎と観ることができます。

・・・どちらにしても易は「典要と為すべからず」が重要です、科学のように同じ条件で繰り返すものじゃないのです。それをカン違いして絶対こうなるナンテ言い切るからダメなんでしょう。

◆たまには「海の進軍」でも聴いて明治の軍人の武人の貞の気風を感じてみては如何でしょうか^L^

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