◆6月29日『荒城の月』『花』の作曲家・滝廉太郎の命日

◆6月29日『荒城の月』『花』の作曲家・滝廉太郎の命日
きょうは『荒城の月』や『花』の作曲家・滝廉太郎のなくなった日です。
明治36年【1903】年6月29日、わずか24歳と10ヶ月の生涯を閉じました。

『雪やこんこ』『鳩ぽっぽ』『もういくつ寝るとお正月』や『箱根の山』なども作曲しています。

『明治という国家』のなかで司馬遼太郎氏は次のように書いています:

「滝廉太郎は東京麹町の尋常小学校を出、14歳とともに竹田〔大分県竹田市〕に移りました。
そして、竹田の高等小学校に入ったのです。すでに滝少年はヴァイオリンをもち、アコーディオンを もっていました。また学校のそなえつけのオルガンを弾くことは、滝のみにゆるされていました。
16歳という最少年齢で東京音楽学校〔東京芸大〕に入り、 22歳明治33年、研究科のときにドイツ留学を命ぜられます。

 これよりすこし前、東京音楽学校は『中等唱歌集』の編集をくわだて、まず作詞を文学者たちに依頼し、できあがった作詞を学校の責任のもとで作曲したのです。
『荒城の月』の作曲は研究生滝廉太郎に命ぜられましまた。

かれの留学先は、ライプツィヒ〔Leipzig〕の音楽学校でした。
この町は、いまは東ドイツに属し〔1989年当時〕、中央ドイツ最大の都市で、市内には古い城壁の一部が残ってます。

かれは、この中央ドイツの都市の下宿で、学校関係の人か、あるいは下宿の女主人か、いずれにせよドイツ婦人に求められて『荒城の月』をひき、感心させたといわれています。
異境の地で、しかもその翌々年には死ぬ身で、異郷の町で、一婦人をだた一人の聴き手として『荒城の月』をひいていた情景を思うと、胸がつまりそうになります。」


 風邪がもとで健康をこじらせた滝廉太郎は、明治35年帰国します。
その帰途の途中、船がロンドンのテムズ川の埠頭に立ち寄ったとき、英国留学中の土井晩翠が訪れて滝にあっています。
『荒城の月』の作詞者と作曲者が逢ったのは、このときが最初で最後だったそうです。

 帰国後、結核と診断され、大分市の父母のもとで療養していたのですが、明治36年〔1903〕6月29日に亡くなりました。享年 24歳10ヶ月。

♪ミミラシドシラ~♪ファファミレミ~♪だったかな?

きょうは、若くした亡くなった滝廉太郎と竹田の岡城を偲んで『荒城の月』を歌いましょう^L^


  荒城の月

      土井晩翠作詞
      滝廉太郎作曲

 春〔はる〕高楼〔こうろう〕の花の宴〔えん〕
 めぐる盃〔さかずき〕かげさして
 千代〔ちよ〕の松が枝〔え〕わけいでし
 むかしの光いまいずこ


 秋陣営の霜〔しも〕の色
 鳴きゆく雁〔かり〕の数見せて
 植うるつるぎに照りそいし
 むかしの光いまいずこ

 いま荒城の夜半〔よは〕の月
 替〔かわ〕らぬ光たがためぞ
 垣〔かき〕に残るはただかつら
 松に歌うはただあらし

 天上影〔かげ〕は替らねど
 栄枯〔えいこ〕は移る世の姿
 写さんとてか今もなお
 嗚乎〔ああ〕荒城のよわの月 


  ・・日本の歌っていいなぁ・・・

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント