きょうは『菜の花忌』 司馬遼太郎先生の命日 

きょう2月12日は『菜の花忌』です。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』などの多くの歴史小説をかいた司馬遼太郎氏の命日です。菜の花は司馬先生が好きな花だったそうです。
 先生は大正12年1923年大阪に生まれ、亡くなったのも大阪で平成8年1996年2月12日のことです。前年の1月17日阪神大震災がおこり、3月20日にはオーム真理教の地下鉄サリン事件が起きています。おそらく司馬先生は、日本の将来を按じながら亡くなったのではないでしょうか。

◆きょうは司馬先生をしのんで、『「昭和」という国家』の最後の部分の掲載いたします。
 この本の帯には「司馬遼太郎先生の「最後の本」」と書いています。

 NHK教育テレビで放映された「司馬遼太郎 雑談『昭和』への道」の最終回「自己解剖の勇気」を記録した本です。
 いまから28年前の1987年2月25日に放映されたものです:

  自己解剖の勇気
      司馬遼太郎  

 私が言いたいのはですね、私どもは明治元年に国際社会のなかでのひとつの国になりました。
 国家および社会および一民族の発達というものは、やはり一人の人間に置き換えて考えることができます。
 結局、未熟でしたね。


 日本という国は世界史でも不思議な国で、ヨーロッパのにおいのない地域にヨーロッパと類似の国を建てて、しかも今はだいぶ怪しくなりましたが、東洋のよさというものを、少なくとも明治期は残してきた。
 繰り返して言いますが、一種の秀才教育、偏差値教育は日露戦争の後にもう始まっています。
 つまり薩長が壟断(ろうだん)していた権力社会に食い込むには、陸軍大学を出なければいけない、東京大学法学部を出なければいけないという気分は、特に維新に乗り遅れた藩に多かったですね。
 ペーパーテストで秀才という、いい太鼓判を押してもらうと、出世していく。そういう江戸期離れが始まりました。明治の人が精神に持っていた江戸期の財産は、大正時代にはもう廃れてきましたですね。
 もう昭和になると江戸期のにおいはありません。ほとんど遺産は食いつぶしたようなものですね。
 そして今のようなひどい偏差値社会ではないにしろ、もう大正期にはすでに偏差値偏重の傾向が一部のクラスでは見受けられていたように思います。
 金持ちだけではないですね。軍人は一銭の金もない家からでも出ます。

 辻政信という、極めて昭和期的な軍人はですね、裕福な家の出身ではありません。秀才たちをただで教育するシステムが陸軍のシステムですから、出世した。
 貧しいところから出たから貧しいひとびとに同情があるとか、アジアのひとびとに同情があるとか、そういうことは全くないのですね。ただその異様な人物を出してしまっただけのことです。
 ひとの国の痛みがわかるとか、他の民族の歴史に対して荘厳な思いを持っとか、そういった教育は受けたことがなかったのでしょう。軍人の学校だけではなくて、他の学校でも恐らくそういう教育をしたことはなかったと思います。

 日本は、国際社会のなかで、つまり明治以後、よくここまでやってきたとは思います。太平洋戦争のような大変な失敗があり、アジアの諸国に、ずいぶん迷惑をかけ、後々まで、ものを考える日本人は少しずつ引け目を持って生きていかなければならなくなった。
 それだけのことをやってしまったわけです。しかし、それもこれも入れて、なんとかやってきたとは言えそうです。

 これから世界の人間としてわれわれがつき合ってもらえるようになっていくには、まず真心ですね。
 真心は日本人が大好きな言葉ですが、その真心を世界の人間に対して持たなければいけない。そして自分自身に対して持たなければいけない。
 相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかのごとくに感じることが大事ですね。
 いろいろな事情から、国家行動とか民族的な行動が出てくるものなのだと、社会の現象も出てくるものなのだと、いろいろ事情を自分の身につまされて感じる神経ですね。そういう神経を持ったひとびとが、たくさん日本人のなかに出てくることによってしか、日本は生きていけないのではないか。

 大正期はひとつの受験時代でもあります。大衆社会といわれるように、学校の数もずいぶん増えました。そして受験時代が始まりました。その結果はいい結果もあったでしょうが、つまらない結果しか生まなかったとも言えそうです。
 先ほど申し上げましたように、日本は第一次大戦に押し込んでいって参加した。同時に世界中が船を造れない、その他何々ができないという理由で、ずいぶん日本にお金が落ちた時代がありました。船成り金という言葉ができ上がったくらいでして、そういうふうに第一次世界大戦でいわば儲けた。
 その儲けがたくさんの官立学校や私立大学をつくる素地になり、つくっても需要がありました。そこへ入ってくる子弟の経済的な基盤もあった。いまの前触れのような時代であります。

 その時代のよさはあります。
 本を読んだり、ものを考えたりする階級が増加えました。
 同時に悪いところもあります。人生の価値は一流高校に行くことだとか、一流大学に行くことだと思い込んでしまう風がすでに大正期からあった。
 それが昭和期にはよほど加熱した。

 そして戦後四十年、われわれは自分の社会を振り返ってですね、ちょっとおかしいのではないかと思いますね。
 前回も言いましたが、右から左から、東西南北、日本どこを問わず、偏差値ばかりです。
 もっとも偏差値もあまり悪いと情けなくなるときもありますね。

 私は坂本竜馬の国の、土佐のことを、ずいぶん書いたものですが、高知県というのは全国の最下位に近いんですね。
 おもしろい、非常にダイナミックなものの考え方のできる風土の土地だと思うのですが、偏差値教育の場では最下位に近いんです。
 お隣の愛媛県は最上位に近い。同じ四国のなかでどうしてこれだけ違うんだろう。きっと土佐の人間には偏差値という社会が合わないのではないかと思うぐらいです。
 一人の女の子がいましてですね、その女の子は高等学校を出たばかりの、高知の子です。
 彼女は言います。全く偏差値社会と関係ない子でして、こんなことをよく言います。
「日本という国は息苦しい」と。
 どこかの国の人と結婚したい、もう日本の社会は私にはあわないという。
 高知の子であります。

 高知という、おおらかで、ダイナミックで、そして潔いところのある県はですね、おもしろい人をたくさん生みました。
 革命家だけではなく、自由民権運動家だけではなく、高知県には明治以後、名文家が多うございました。
 漱石が可愛がった寺田寅彦(1878-1935)という物理学者がいますね。あるいは大町桂月(おおまちげっけい1869-1925)もいます。非常に文章のうまい人が多いところですが、そういう知的な作業においても、おもしろいものを持った県が、どうして日本の事務局長養成型の偏差値社会に合わないのでしょうか。
 これは大きな何かを暗示していることだと思うのですね。このことは私の心配することではなくて、ただ言いっぱなしにしておきましょう。


 前の回に言いましたように若い人がもし聞いてくださっていればその人が考えたらいい。
 その人が考えることであり、私はちょっと宿題というよりも、かすかなヒントを一人しゃべりでしゃべっているだけであります。

 十二回、よくしゃべったものだと思います。こういうようなとき、どうあいさつすべきなのか。長らく聞いてくださってありがとうございました。

 ・・・NHK ETV8「司馬遼太郎 雑談『昭和』への道」・・・
   最終回 自己解剖の勇気(1987年2月25日放送)


 司馬遼太郎先生のご冥福をお祈りいたします。


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