「ひんがしの野にかぎろひの立つ見えて・・・」

「東の野に炎の立つ見えて
     かへり見すれば月かたぶきぬ」   万葉集 48


この柿本人麻呂の歌をよむと、反射的に蕪村の句:

「菜の花や月は東に日は西に」


を思い出す習性があります。
この「ひんがしの野にかぎろひの・・・」の短歌には、菜の花の咲く、お彼岸の頃のイメージがあるのです。

 しかし、この歌は冬至の光景を詠ったものだそうです。
東の空に曙光〔しょこう〕が立ち、西に月かげが傾く・・・真冬の払暁〔ふつぎょう〕の光景を詠んだものだそうです。
東京天文台によると、この短歌がよまれたのは陰暦の11月17日、太陽暦では西暦692年〔待統六年〕12月31日のAP5時50分ごろだそうです。

 森朝男氏の『柿本人麻呂の時間と祭式――阿騎野遊猟歌をめぐって』 によると、
・・・それは冬至前後の午前6時ごろ
「大嘗会の中冬下の辰の日の卯の刻」に近く、 その「即位儀礼の祭式的時間における朝に一致する」
ということです。

 一年のうち最も日の短い冬至の日の夜明けに、 自然暦の上における生と死との転換、生命の授受が行なわれる。
それが天皇霊の授受に関して行なわれる大嘗会であった。
それが古代において、祭祀が夜をこめて行なわれるのはそのためであり、またこの阿騎野冬猟歌において旅宿りを絶対とするのも、 その呪的儀礼が霊の授受を目的とするからである。

 「一陽来復」の冬至は、陰陽交会のときで、生死の転換のときです。
「ひんがしの野に・・・」の歌は、持統天皇の子であり、即位せずして夭折した草壁皇子の霊から、持統天皇の孫である軽皇子への霊の授受の儀礼を詠った短歌なのです。
継体受霊の歌、「ひつぎ」の歌なのです。そのために軽皇子は、父親である草壁皇子が在りし日によく狩をした阿騎の野で一夜をあかすことで霊継〔ひつぎ〕をして一陽来復の冬至の朝の「かぎろひ」を眺めたのです。

 この情景をイメージすると、地雷復と震爲雷の卦が浮かんできます。

  ☳  ☷
  ☳  ☳
  震  復

 左の震爲雷には、外卦の☳震の天武天皇と持統天皇の長男である草壁皇子、内卦は☳震はその草壁皇子の長男である軽皇子への日嗣〔ひつぎ〕=霊継ぎの象意があります。この日嗣によって軽皇子はやがて文武天皇になられるのです。
 また、内卦の震は「東ひんがし」であり「草や木」の生えている阿騎〔あき〕の大野、二三四爻には☶艮の山があり、この艮は「光」でもあります・・・東の山の端には冬至の日の「かぎろい」が見えています。
その下には初爻から四爻に大きな太陽【離の似卦】が伏しています。
 ふり返ると三四五爻に☵の満月【草壁皇子の霊】は沈みかけています。・・・その四爻の月がしずむと地雷復の「一陽来復」の卦・冬至の朝になります^L^


■白川静先生は『文字講話Ⅰ』のなかで次のようにお話されています:

 近親婚は血の純潔性を保つためであり、その血によって象徴される霊の力の継承を意図するものですが、その霊の力を継承する古代的な例の一つを、申し上げようと思
います。それは先に申しました、天智の皇女が天武の妃となり、天武の崩後、即位して持統天皇となります。持統は自分の皇子である日並〔ひなみしの〕皇子を、次の王位継承者として定めていましたが、日並皇子は先立って没し、皇孫の軽〔かるの〕皇子が残った。持統はその軽皇子に、かって日並皇子が冬猟を試みたことのある安騎〔あきの〕野に旅をさせます。そして柿本の人麻呂を伴につけて、その冬猟の歌を作らせた。『万葉』に、

  軽皇子、安騎野に宿りたまひし時、柿本人麻呂の作れる歌   万葉集45


として、

 やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神〔かむ〕ながら 神〔かむ〕さびせすと 太敷かす 都をおきて 隠口〔こもりく〕の 初瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根〔ね〕 禁樹〔さへき〕押しなベ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪ふる 阿騎〔あき〕の大野に 旗すすき 小竹〔しの〕をおしなベ 草枕 旅宿りせす 古〔いにしへ〕念〔おも〕ひて


の歌が残されています。大変有名な歌ですね。この安騎野というところは、私も大変気になっておりまして、機会を得て車を走らせて、その迹【あと】を見にゆきました。ちょっと小高いところに「東の野にかぎろひの」の歌碑が建てられています。前一面は、ちょうど窪地になったところ、草茫々として、中から雉が飛び立つのではないかというような風景で、しばらく往時をしのびました。その安騎野へ、持統は軽皇子をわざわざ行かせるのですね。古をしのびながら、今この道をたどりつつ来るという長歌が荘重に歌われ、そしてその最後に、

  み雲ふる 阿騎の大野に 旗すすき 小竹をおしなベ 古念ひて


と、古を偲んで旅宿りすることが歌われている。狩のことには、全くふれていないのです。旅寝をすることがその目的であった。そして反歌が四首あり、第一首は、


  阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 寐〔い=寝〕も宿〔ぬ〕らめやも 古念ふに  万葉集46


と、やはり夜もすがら寝られぬ旅宿りを歌い、第二首には故皇子の形見の旅であること、第三首には、

  東〔ひむかし〕の野にかぎろひの 立つ見えて 反りみすれば 月傾きぬ   万葉集48


という有名な歌があります。夜明けの荘厳を歌った歌とされているが、これは冬至の年の代るときで、新しい生命を迎えるときです。それで最後に、

  日竝〔ひなみし※〕の 皇子〔みこ〕の尊〔みこと〕の 馬竝〔な※〕めて 御猟〔みかり〕立たしし 時は来向〔きむか〕ふ   万葉集49


  【※蛇足】
   「竝」は「ならぶ・並ぶ」という意味。
   馬竝めて・・・草壁皇子の馬と軽皇子の馬を並べて
   日竝〔になみし〕には日を並べる意味です、『易経の上経の最後の卦・離爲火は火=日が並んだ卦です。
   離の象伝には「明を継ぎ、四方を照らす」という辞があります。日嗣の象意がある卦です^L^

と皇子の姿を現前させる。この現前された日並の霊が、軽の皇子にそのまま受け継がれる。これは霊を承け継ぐ儀式の歌であると、私は考えています。『万葉』にみえる
野に宿る歌は、みな霊の交感を目的とするもので、『詩経』の中にもそのような宿りの例がみえます。

 古代における近親婚の俗は、あるいは大変野蛮な習俗のようにみえますけれども、中国の古代においてもそのような俗があった。これは未開社会の習俗に遠く及ばないではないかというふうに、思われる方もあるかと思います。私もそのような疑問をもって、それは何ゆえかということを考えてきたのであります。そして、牧畜民族のように、優生学的な経験をもつことのなかった農耕社会では、むしろ他の原則が支配していたであろうと思うようになりました。私なりに古代の近親婚に対する一つの解釈をえたというように考えまして、このようなことをお話するわけであります。

◆ちなみに、明日は19年間に一度あると謂われている『朔旦冬至』の日です。
 朔旦の朔は新月の日つまり旧暦の一日〔ついたち〕です。
 朔旦の旦は正月元旦の旦で一年のはじまり・年初のことです・・・一陽来復の冬至を一年のはじまりとみる観方です。
 朔旦の旦は正月元旦の旦で一年のはじまり・年初のことです・・・一陽来復の冬至を一年のはじまりとみる観方です。

 つまり、新月と冬至が重なる日・・・月のはじめと年の初めが一致する日です。

 『朔旦冬至』から月も日も陽気が増してくるという意味の吉日ということです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント