『ニタマルクはクルマタニ?』

『ニタマルクはクルマタニ?』
今日は尊敬する易の師匠 仁田丸久先生の命日です。

本名 車谷常市氏、易占いのときは仁田丸久先生です。
仁田丸久の名前も いろいろな読み方をされているようです。

また仁田丸久の名前の由来の真相は、
車谷を逆さに読んだわけではないようです。

晩年の仁田先生は、小生がいま住んでいる町とは県境をへだてた
鄰町、電車で一駅のところに住んでおられました。
大阪空港に近い町で、
加藤大岳先生が関西に来られたときには、
よくお見送りに往かれたようです。

その大岳先生が書かれた『仁田氏を悼む』という記事が、
『易学研究』の昭和48年6月号に載っています。

きょうは仁田丸久先生を偲んで その後半のところを掲載いたします:
『仁田氏を悼む』  加藤大岳

 それは、大阪での集りに私が出向いた折、住居が近いからと言って、
いつも伊丹空港まで見送つて下さるのが毎回の例になったからで、
麻野勝稔氏や吉田順峯氏が一緒の時もあった。
 ところが、大阪の会の幹事の方が用意して下さった車は、
時間のゆとりを配慮されてのことであろうが、予約の便が出航するまで、
一時間あまり間のあることが毎【いつ】ものことだったので、その時間を消すために、
構内の食堂か喫茶店で、雑談を交わす仕儀となるのが例であった。
仁田氏はアルコールの入った飲み物を嗜まれなかった。
それでも、うちとけた話柄が弾んで、愉しい一ときであった。

 昨年【S48年】の11月、易学先師先覚供養塔の合祀祭のとぎも、
やはり仁田氏が伊丹まで見送って下さつたが、
その折、私は旅客機に乗つてみたいという孫たちを伴つていたが、
私が昼の役目を果しているあいだ、孫たちは一日コースの神戸遊覧の
バスの中で過ごし、私が空港ターミナルに着くと間もなく、やって来た。
仁田氏は孫たちを引き合わせると、遠慮をして帰つてゆかれた。

 それが仁田氏との最後の別れとなったわけである。今となってみれば、
その最後の夜に、いっものように仁田氏がコーヒーを啜りながら、
私の酒の相手をして下さる其の時間を失ったのが、
いかにも心残りの思いに駆られる。

 仁田氏は天行居の有力な道士であると伝え聞いていたが、
氏の告別式に参列された渡辺観岳氏からのお便りには
「クリスチャンで、人格者だった氏の顔がしのばれます」と書かれている。
大行居の道士とクリスチャンという組合わせは、その結び目に、
一瞬 戸惑いを感じさせるが、そのような不連続の連続というところにも、
氏の秘訣の一つの魅力があったのかもわからない。

 渡辺氏からのお便りの中にはまた
「浜崎洋至氏は弔辞を読みながら泣いていられました」と書かれている。
氏が神戸・大阪の易友や後進の間に、どんなに親しまれていたかが、
その短い文面に溢【あふ】れている思いがする。

  『易学研究』昨年12月号の田中洗顕氏の『金風・周易時義注解』の中に
挿入した「秋田県史編集室に於ける永井金風」の写真は、
11月の大阪の集りの帰りに伊丹空港で、仁田氏から頂戴したものであった。

 仁田氏から高島呑象の書いた掛軸を戴いたのは大戦前のことであった。
呑象が好んで書いた文言伝の
「夫大人者、与天地合其徳、与日月合其明・・・」の章句である。

 また、私が『真勢易秘訣』の執筆に掛かっている頃、
松井羅州自筆の『易占揆方』の稿本の贈与を賜ったのも、
いまだ記憶に新しいのに、数えてみれば、もう30年も以前のことである。

 わが岳麓精舎同人の古参てあり、また汎日本易学協会の参与であった
仁田丸久氏を喪ったことは、易の学問方術の良き先導者に先立たれたという
悲しみが、耐え難い思いを抱かせるが、
然し、慟哭を伴うほどの激情となって衝撃を私に与えないのは、
私の感受性が老い衰えて鈍化した所為でぱなく、私も亦、遠からずして
仁田氏と同じ境涯に此の身を置くのだという親近感のためなのであろう。
 若し死後の世界というものがあるならば・・・。

◇仁田先生は、『古事記』、歌舞伎、能、『聖書』、万葉集、
フロイド、アドラー、ユングなどの心理学、ゲーテ、ニーチェ・・・
話題が豊富で楽しい先生です。エロ話も上品〔?〕ですよ(*^L^*)

先生の名占の秘訣は、大岳先生が言われるように
『不連続の中の連続』のあるのかも知れませんね。

仁田丸久先生の御魂のご冥福をお祈りいたします アーメン

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