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zoom RSS ◆きょう6月3日は『測量の日』・・『伊能忠敬の測量日記』より

<<   作成日時 : 2018/06/03 13:51   >>

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◆きょう6月3日は『測量の日』・・『伊能忠敬の測量日記』より
 きょう6月3日は『測量の日』です。
 昭和24年【1949年】6月3日に「測量法」が制定されたことに因んでつくられた日です。


・「測」の字について
「測量」の「測」は「氵〔さんずい〕+貝+刂」で成り立っています。
 「貝」は「鼎」の省略形です。「刂」は小刀や彫刻刀などで削ったり、抉り取るという意味です。
つまり「貝=鼎」の表面に小刀で銘を記すという意味です。鼎銘は祖先・祖霊に告げるべきものですから、不変の規範となすものです。つまり、典型・法則・常則とすべきもの=基準となるものです。それに氵〔さんずい〕を付けることにより、水平を求め、それを基準にして高度や高さなどを計測という意味の字=測が出来たのではないでしょうか【←易爺の妄想です】

・「量」の字について
 「量」の字は「曰+東+土」から成ります。
 「東」は囊〔ふくろ〕です、お米や麦、トウモロコシなどを容れる袋です。下の「土」はフクロを立て置く土台のようなもの。上の「曰」は「いわく」で大きな「口」です・・フクロに穀類を入れるための口です。・・・つまり、東=フクロの上の口から穀類を容れて一杯二杯と穀類の量を計るフクロです。
 因みに「食糧」の「糧」や「食粮」の「粮」も同系の字です。「量〔りょう〕」は「良〔りょう〕」に通音します。・・・良というのは、米や麦、トウモロコシなどを人工的に風を起して軽い穀物の粒は遠くに飛び、重い実が一杯に詰まった良い穀物の粒は余り飛ばないことを利用して良い穀物を選〔え〕り分けることから、良い米=「粮」となったのでしょう^L^


◆小生は「測量」といえば伊能忠敬を思いだします。いまはどうか知りませんが、易爺のころは小学校で「伊能忠敬」や「金原明善」「二宮尊徳」などについては国語の教科書に載っていました。ですから、伊能忠敬のことはよく知っていますが、最近の小学校は教えているのしょうか。

 きょうは藤田元春著『伊能忠敬の測量日記』の四章の「蝦夷地測量」のところを掲載します。例によって、旧仮名遣いは新仮名遣いに改めようと試みましたが、途中で旧仮名遣いの方がいいように感じ・・・など右往左往している状態です:
四 蝦夷地測量


 忠敬が準備万般をととのへ、幕府の命をまち、いよいよ後の世の見合にも可相成、万人の目をさますべき蝦夷測量に出立したのは、寛政十二年閏四月十九(六月十一日)朝五つ前で年齢実に五十六歳の時であった。

 従へるものは門倉隼太、平山宗太(二十歳)庶子・伊能蔵(十五歳)及び僕ニ人、携帯の器械は三尺八寸の象限儀、これは天体測量の度器で、享保年間に吉宗などが用いはじめた同じ種類のもので、大野彌五郎兄弟の作ったもの、望遠鏡がついていて、これによって恒星の高さを測定するものであるが、そのほかに新製方位盤(二尺五寸) 杖先〔つえさき〕羅鍼盤、これは伊能の製作で逆目じしゃく、方位度測定に用いたものである。また垂球儀、間棹〔けんざお〕、間縄〔けんなわ〕、じしゃく、コンパツ〔=コンパス〕等をそろえて人足三人、馬二疋であったが、蝦夷では人馬が不足のため人足三人、馬一疋で運搬にあたったといふことであった。


 深川を出てから、奥州街道を歩数で距離を定め、杖先羅鍼で途の方向、遠山の方位等を概測して野帳にしるした。折ふし夏のことで昼が長かったから、毎日八里から十一、ニ里に達し、宿につくと直ぐに携えた象限儀を据えつけ、恒星の方中高度を測定した。恒星といえば、北極星とかカシオペヤ、アンドロメダ、ペガシイ【ペガサス】等の北天の明らかな恒星を観測したもので、この後になると享和二年五十八歳十月二十四日から十二月十二日迄、深川で三十四の恒星の視高度の表が出来たのであったが、忠敬の蝦夷測量以前にはまだそうしたは表はなかったようである。

 かくて宇都宮、白河、仙台、盛岡、野辺地、青森をへて五月十日津軽半島の尖端三厩〔みんまや〕に達し、順風をまち、数日にして同月十九日出帆、対岸の吉岡に上陸、それから陸路箱館に進み、二十
二日箱館着、滞在数日で、緯度観測および遠山方位観測を行い、人夫の都合で大方位盤をあとにのこして、五月二十九日箱館出発、馬一疋、人足三人をつれた一行三名であった。そこで間縄で距離を測定し、杖先羅鍼でその方位をたしかめて進んだが、どうもこうしていては時間がかかりすぎるので、前途の長程を慮り、第一日で間縄をやめて、毎日四、五里から七、八里の行程に定め歩数を測りつつ東側の海岸に沿うた街道をすすみ、夜は必ず天測を試み、もしも天候不良である時には、天気が晴れる迄、その地に滞在して必ず位置を確定したのである。箱館を出て山越内【易爺?】から、モロラン、即ち噴火湾岸をへて室蘭、それから苫小牧をすぎ、日高の三石、幌泉にに達し、岬を廻って、厚岸までずっと歩測した。七月二十七日、センボウジから船でアツケシ湾を横切り厚岸に達し、そこから陸路アンネベツをへて八月七日、ニシベツに来たが、この間は行路の困難で、道程方位共に不完全で、どうも満足の結果が得られなかったらしい。しかしアシネベツとニ-シベツとの位置は緯度の測定と雄阿寒、雌阿寒嶽の望遠方位とによって大体の火決定が出来た。それから根室へ行かうと企てたが、人夫が不足したのでこれを断念し、ニシベツからネムロ、並びにクナジリの岬等へ方位の遠測をする程度に止め、八月九日から帰路に上ったのであった。


 何分にもこの行は最初でもあり、幕府の手肋も少く、且つまた自費も多くかかったから、帰途を急ぎ、九月十一日には住行の半の日数で箱館についた。そこで九月十四日箱館から松前までの測量をとげ、十八日松前を出帆して三厩に帰航。再び往路と同じ方法で、奥州街道を測量し、宿泊地点の緯度測定を
行い、毎日六、七里づつ約一ヶ月かかって、十月二十一日、深川に帰ったのであった。この間百八十日。

 まづかういふ次第で、蝦夷ははじめての略測に過ぎなかったけれども、その野帳によって直ぐに地図の製作にかかった。幕府から出た金は少かったから、結局私財八十両を消費したと申し傳えている。
 製図は門倉隼太、平山郡蔵、久保木太郎右衛門及び内縁の妻榮女等の助手が揃っていたから迅速にすすみ、十二月には殆んど出来上って、十二月二十一日という日に、大小二種の地図を差し上げた。大は四万三千六百三十六分一の縮尺であり、二十一枚。小は大の十分一の縮尺で一枚。これを幕府下勘定所に上り、別に一部を製して若年寄堀田正敦に呈した。この時添書をつけて、実測製図の方法等をのべたが、その重要な点を述べると、


第一、北極之地度の義は泊々にて何れも象限儀を相用い、恒星中の大星を擇み、天氣くもり見えがたき節は五、六星、晴天の夜は二・三十星、いづれもその地の高度を測量仕り、兼て測量候恒星赤道緯度表を相用い、その地の北極之地度を相求め申候、一星ごとに如此仕り、其中を取り候て其地北極出地度と相定申候

とあるから、忠敬先生の泊における夜の仕事といふものは、各地到る所で大変な事業であったのである。しかも十数星の高度によって平均した緯度を算定したのであるから、その苦労は並大抵ではない。実に勤勉そのものの如き先生にして始めて出来たといわねばならない。

第二に、絵図大小二道に相分け候儀は、小図はその全形を一紙に記し可申ために御座候。大図の方は道路の曲直微細に相記し可申ため分図に仕り候。大図の方は曲尺ニ寸九分七厘を一里と仕り候、但し一間六尺一町六十間、一里三十六町積り、小図は大圖の十分の一に仕り候故一里二分九厘七毛に相当り申候。

とあって、ここに我が國の曲尺といふものでの実測図がはじめて出来た。勿論大化改新以前から、我が國には恐らく高麗尺というものによる地籍圖が出来初めていたのであるが、和銅六年になって、六尺一歩(一間)ということがきまった際に、この田積の尺は高麗尺を一尺二寸とみての一尺と定った。従ってとの時唐の尺とは全然ちがった「日本尺」といふものが出来、その当時から六尺一間の田積の基本が出来たのである。ところがこの尺は後世の所謂木工尺とは若干の差があり、また吉宗将軍の時定められたといふ熊野神庫所蔵の尺によったといふ「享保尺」といふものとも若干の差がある。

 即ち、木工尺の方は二厘程も短く、享保尺はニ厘ばかり長い。(日本度量術志稿【易爺←見当らず、不詳?】)そこで伊能先生が折衷尺をつくってその中をとり、これを量地の基礎にされたといふことになってゐるのである。ここにその検定表をいれてみる。

★★★明治四十三年秋農商務省での検定表
画像


即ちこの結果により折衷尺の長さはほぼ享保尺および木工尺の平均に当り、普通温度にて現行の一尺とほぼ等しきことをしるべし。


 即ち この表通りであるが、事実は下総佐原在〔ザイ〕で名主として田積をとりあっかっていられたので、従来の六尺一間といふ間棹が和銅以来づーっと永続したものがあったので、恐らくそれによられたのだらうと考える。勿論木製の棹や木や竹の尺が一千年も残りはしないが、田地の坪といふものは祖先相承で、村の田畑の上に永続して残り得るのであるから、先生はかうした自家の経験から田地の間棹に用いられたので、自然にその尺は和銅の日本尺に一致したらしい。これを曲尺ともいい、世間では伊能の折衷尺ともいふのである。即ち当時民間の大工などの木工尺とは、ややちがった尺がこの製圖の際に使用されたのである。このことは別に筆者に「尺度綜攷」といふ論考があるから、あまりここで詳細には述べないが、とにかく伊能尺というもので日本の土地が測定されたことは確実であり、明治になってからこの折衷尺によって、我が日本の現行曲尺○〇・三〇三米【0.303m】の長さが定ったことも事実であった。しかしこの曲尺が極めて古くから存在した証左は、陸地測量部の地形圖で、奈良や江州蒲生郡や、或は越前、又は東国等の平地に就いての極めて古い田地の区画をみると、六尺一間、六十間一町といふ標準から出来たもの、即ち六町ごとの条里というものが現存しているが、その多数の条里が、平均してこの現行の曲尺の長さに一致するという事実によって証されるのである。つまり伊能先生の間棹によって日本の土地がはかられて地形図の示す過去の条里の六町とか一里というものは、全くいまの曲尺のそれに一致するということが断言される。従って伊能尺はこの時即ち寛政に出来たものではない。実は昔から土地の條里〔じょうり〕に用いられたものであることを感ずるのである。但しこのことは或いは筆者の一家言であるかもしれない。多くの歴史家は日本の曲尺は、唐の大尺だとか、唐制の模倣だと論ずる人もあるけれども、事実奈良朝頃に舶来して正倉院などに残っている唐尺というものは、いづれも同じ長さではない。これを調査した人の報告にみると一本一本ちがった長さのものであって、日本の條里〔じょうり〕の平均の長さのようんい、各地一様ではないのである。しかもその一本一本の長さは曲尺とは全然ちがっていることは注意されるべき要点であると思う。

 伊能先生は、実に農家の出身で名主であったから、この六尺一間というものに慣れていられて、恐らく自家の下総での間棹を用いられたであろうと思う。それが幸いにも日本各地の間棹と一致していたので、自ら和銅の曲尺に一致するという結果になったのである。それを世間で「伊能折衷尺」だというのであるから、一言これをここに付記しておく。

 ・・・藤田元春著『伊能忠敬の測量日記』より・・・

    ×  ×  ×


 この「第三に緯度の測定について」と続くのですが、次の機会に掲載します。
 このあと、樺太〔カラフト〕が島である事を調べ間宮海峡を発見した間宮林蔵【倫蔵】との出会い、伊能先生が測量方法をつぶさに伝授したという話など興味ぶかい話がいっぱいあります。

 伊能忠敬先生のような立派な生き方をした先達が、日本の歴史のなかには・・・とくに昭和の時代までは志の高い人たち大勢おられます。
 それを伊能忠敬先生の田積の尺の長さをながーく保ちつづけてきた日本人・日本の国は素晴らしいです・・・これが「素晴らしかった」にならないように守り続けるのは私たちですよ><;

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