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zoom RSS ◆6月2日は『本能寺の変』の日・・敵は本能寺に在り

<<   作成日時 : 2018/06/02 15:00   >>

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今日6月2日は本能寺の変の日です。
この「本能寺の変」以後、和に【=1582年】なって皆な仲良く・・・と行きたいところですが、この本能寺の変により織田信長を自殺に追い込み、天下を取った明智光秀のことは、後世『三日天下』として哄笑されています。



きょうは、菊池寛の書いた『日本戦史抄』のなかの「在敵本能寺・・敵は本能寺に在り」の部分を掲載します:
◆在敵本能寺
・・・敵〔てき〕は本能寺〔ほんのうじ〕に在〔あ〕り・・・


 ここで、ちょっと、本能寺の変のことを書いて置く。
 六月朔日〔ついたち=一日〕、明智光秀〔あけちみつひで〕は、中国出陣を前にして、亀山城に明智左間助、同次右衛門尉、藤田傳三、齊藤内蔵助、溝尾勝兵衛尉等を集め、信長に対する叛意〔はんい〕を打ち明けた。一同は驚いたものいの、光秀の決意牢固として、披き難いのを見てとったので、何れも同意した。
 その夜半、光秀麾下〔きか〕の兵一万五千は、主将の意志は知らず粛々と亀山城を出発した。
 老〔おい〕ノ坂で、兵糧をつかい、軍馬に一息入れさせた。ここから、右すれば山崎天神〔やまざきてんじん〕馬場摂津街道である。左すれば、京街道である。光秀は、天野源右衛門を先に走らせ、抜けがけして、信長に注進するものを警戒させて置いて、
「我が敵は本能寺に在り」と叫んで、左へ、京街道に兵を進めた。


 信長は、五月二十九日、安土城を出発して、京都に入り本能寺に宿をとっていた。光秀は、豫〔あらかじ〕めこれを知っていたので、前から決心していたのである。二十八日の愛宕山〔あたごやま〕の連歌〔れんが〕の席で、光秀は、そばの者に、不用意にも、「本能寺の濠の深さ標はどうか」と問い、紹巴〔しょうは〕からたしなまられて、口を噤〔つぐ〕んだというととであるし、同じくその日、粽〔ちまき〕が出たのを、包葉〔かわ〕も剥〔む〕かずに食ったという有名な話も残っている。又、二十八日
の夜は、西ノ坊に泊ったのであるが、いかにも寝苦しそうに、輾転反則〔てんてんはんそく〕して、度々溜息さえもらすので、側に寝ていた紹巴〔しょうは〕が、
「御心地でも悪いのですか」
と問うたら、
「いい句を考えているのだ」と云って誤魔化したという話も残っている。



◆光秀と信長
 光秀と信長の関係は、光秀三十九歳の時からで、今光秀は五十七歳である。当時、光秀が浪々の身を加賀の山中温泉で湯治していたのを天下に人材を求めていた信長は、使者を出して迎へ、軍学者として、四千二百石で抱えたのであった。
 光秀が、信長を怨むようになった原因については、いろいろのことが伝えられているが、豪放で、短気で、率直な信長の人を人と思わぬ振る舞いが、自尊心の強い光秀には余程こたえたらしい。ところが、信長は、その光秀のぷんとするところを面白がって、よけいに意地悪くからかうので、光秀はいよいよたまらない気持ちになったらしい。そんなところへ、家康饗応の役目を抑ぜつけられ、光秀はそのお役目大事と、奈良の市人や、神社仏閣なぞに命じて、珍器を納めさせ、京や堺から逸品を取り寄せさせらりして、用意おさおさ怠りなくやっていると、信長は、あまり鄭重ににしすぎると云うので、途中から、その役目を取り上げてしまった。そして、秀吉
の援兵として、中国に出陣を命じたのである。

 光秀は、信長の余りの仕打ちに、憤懣やる方ない思いであったが、命のまま出陣の用意を爲し、五月二十六日坂本城を出発、前期の如く、二十八日、愛宕山の西ノ坊で連歌興行の後、亀山城へ帰ったのである。
 光秀の謀叛の決心は、この二十六日から、二十八日までの間に爲〔な〕されたものらしい。


 勿論〔もちろん〕、光秀の謀叛は、単なる信長にたいする怨恨だけすからでは無かった。それは、戦国時代の武将の誰もが持っていた天下に対する望みであった。上杉謙信も、武田信玄も、最後の望みは、上洛して、平定することであった。
 光秀も、考えて見ると、自分も、もう五十七である。信長の爲にも、盡【つく】すだけのことを盡した。いくら働いて見ても、信長のm下にいたのでは、も早これ以上の待遇も期待することは出来ぬ、それに信長の自分に対する冷たい、水臭い取り扱いを思うと、何んとか考えなばならぬと思ったのであらう。
 しかも、折も折、折りも折り、信長の麾下〔きか〕の両雄の一人柴田勝家は、上杉景勝と北国で対峙中であり、他の一人である秀吉は、毛利の大軍と中国ので戦っている。瀧川一益〔かずます〕は、上州に遠征中である。信長父子は、ほんの側近の者だけで、一兵もたづさえず、目と鼻の京都の本能寺に滞在中である。これでは、まるで、形勢が光秀に、謀叛の決心を促しているるようなものである。


◆本能寺の変

 信長が、知らぬ間に人の恨〔うらみ〕を買い、謀反されたのは、これが初めてでは無かった。
前にも、殊遇した妹婿浅井長政に叛かれている。荒木重村、松永久秀なぞも、その例である。
 光秀についても、浪人中を四千二百石で抱えてやり、十七年間に、二十五万石にまで取り立ててやっているのであるから、打っても、蹴っても、よもや謀叛されるとは思っていなかったのであろう。
 光秀一万五千の軍兵が、一兵も持たぬ本能寺を襲ったのであるから、いかな信長も、一たまりもなかった。
 最初、信長や、小姓達は、叛軍襲来の物音を下郎達の喧嘩位に思っていたところ、それがただならぬ喊声〔ときのこえ〕となり、銃声となり、物見に出た蘭丸の報告で、光秀の襲撃とわかったので、各々武器を手にして奮戦した。
 蘭丸、力丸、坊丸の兄弟三人、小姓、仲間、馬丁に亘るまで、一人のこらず、最後まで防戦につとめ、枕をならべて討死してしまった。この場から逃げ出したものは耶蘇の宣教師から贈られていた黒人の一奴隷だけ【易爺←★★★】であったという。
 信長も、弓弦〔ゆんづる〕が切れ、槍をもって戦っていたが、肘〔ひじ〕に槍傷を負ふて、戦えなくなると、殿中奥深く退き、納戸〔なんど〕の口を閉め、燃え盛る焔の中で自殺し果てた。

 この日、妙覚寺にいた信長の嫡男信忠〔のぶただ〕は、二条城んい入って防戦した。ここは部下百名ばかりであったのが、追々援兵が加わって、千人位になり、物凄い血戦であった。
 しかし、衆寡敵せず、信忠は、逃げれば、逃げられたのであるが、脱出の勧告を断固と却〔しりぞ〕けて、二十六歳を最後に、父に殉じたのである。

 信長父子を打ち取った光秀は、その勢いに乗じて、近江安土城に攻め寄せ、そこに蓄蔵されていた金銀珠玉を押収し、つづいて、長浜、佐和山〔さわやま〕を攻め取って、坂本城に帰った。


 勝家、秀吉、一益、何れも、大敵と対戦中である。この間に京機〔けいき〕を経営し、先ず毛利と握手して、秀吉を背後から襲って、これに勝てば、天下は自ずから定まるという目算であったのである。又、実際、秀吉が、勝家等と同様、中国で愚図愚図していたら、光秀の目算通りになったに相違ない。そうしたら、明智光秀時代がたった十一日でなく、意外に長くつづいたかも知れなかったのである。


 ところが、秀吉は、前にも言ったように、六月三日の夜半〔やはん〕兇報〔きょうほう〕に接するや、ただちに毛利との和を堅め、神速〔しんそく〕、飛ぶが如く京都に引き返し、六月十一日午前八時には、すでに摂津尼ヶ崎に到着、十三日には、山崎〔やまざき〕で、光秀と会戦している。その神速、駿敏な行動には、さずが智謀の光秀も、面喰って仕舞ったらしい。光秀の目算はがらりと外れ、世間から三日天下と哄〔わら〕われることになったのである。
・・・菊池寛著『日本戦史抄』より・・・

    ×  ×  ×

◆作者の菊池寛は『日本戦史抄』の最後の章に「抜」として次のように書いています:
 世評というものは、善悪ともに、極端に走り易いものである。
 歴史上の人物にEついても、一般の人気のある者と、大衆ににあまりもてない者があって、評判の善い方は、何かにつけてて、いい方に廻され、評判の悪い人物は悪いことは何もかもおっかぶせられて、随分損な立場にに置かれている事が多い。だから、世評を聞いたり、歴史や昔の物語を読んだりする時には、善悪両方とも、それぞれ割引きして見る必要があると思う。

    ×  ×  ×

 そして、明智光秀について次のような評価をしています:

 明智光秀〔あけち みつひで〕も、主君〔しゅくん〕を弑逆〔しいぎゃく〕した悪虐〔あくぎゃく〕無道〔むどう〕の人物とされているが、信長が、重臣〔じゅうしん〕から背〔そむ〕かれたのは、光秀〔みつひで〕が初めてではない、浅井長政〔あさい ながまさ〕、荒木村重〔あらき むらしげ=摂津池田の城主である池田家を乗っ取った武将〕、松永久秀〔まつなが ひさひで〕皆そうである。
 光秀は、信長〔のぶなが〕に対して、重ね重ねの怨恨〔えんこん〕をもっていたらしいが、しかし、本能寺〔ほんのうじ〕襲撃〔しゅうげき〕を思い立った原因〔げんいん〕には、あわよくば天下〔てんか〕を取ろうとした野心〔やしん〕もあったからではないか。

 戦国時代〔せんごくじだい〕の武将〔ぶしょう〕の志〔こころざし〕は、上洛〔じょうらく〕天下〔てんか〕に号令〔ごうれい〕するにあった。上杉謙信〔うえすぎ けんしん〕でも、武田信玄〔たけだ しんげん〕でも、志は天下〔てんか〕に在ったのである。光秀〔みつひで〕とて、心は同じであったと思う。だから、信長〔のぶなが〕を亡ぼしてから、京師〔けいし〕の地子銭〔じごせん〕を免除〔めんじょ〕したりして善政〔ぜんせい〕を施〔ほどこ〕している。
 有名な「ときは今あめが下〔した〕知〔し〕る五月〔さつき〕哉〔かな〕」といふ発句〔ほっく〕にも、当時〔とうじ〕の光秀の志がどこにあったかを十分に物語〔ものがた〕っていると思う。

    ×  ×  ×

 最後の文は、全部原本〔げんぽん〕の通り、漢字の振り仮名〔ふりがな〕を付けて見ました。
 戦前の本は、このように漢字の“ふりがな”が付いている本が大部分で幼少の子供でも興味があれば読むことができるように配慮されていました。・・日本人の優秀さは、このような互いを思いやる優しさが支えたものではないか、と思います^L^

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