takusankanの周易占いノート

アクセスカウンタ

zoom RSS ◆6月15日は空海の誕生日・・・『十住心論』より

<<   作成日時 : 2018/06/15 14:44   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

◆6月15日は空海の誕生日 『弘法大師御誕生会』
 きょうは真言宗の開祖、弘法大師・空海の誕生日です。

 空海は1244年まえの宝亀5年【774年】6月15日に香川県善通寺で生まれました。
 善通寺の御影堂では御誕生会が執り行われ、伽藍【がらん・境内のこと】では「大師市」という市がたちます。

 小生も弘法大師のご誕生地善通寺の生まれです^L^
 小学生の頃までは善通寺の伽藍【がらん・・・なつかしい響きです】で よく遊びました。遊び終わって屋台で売られているワラビ餅やたこ焼きを食べるのが楽しみでした。
 今では立入り禁止だとおもいますが、境内の大きな楠や五重塔にのぼって遊んだものです・・・五重塔の入場するが五円や十円だったと思います。急勾配の五重塔のなかで鳩を捕まえるのですから結構危険な遊びですが、当時は非常におおらかな時代でした^L^
 

 善通寺のHPには「お大師さまは、宝亀5年6月15日に、現在善通寺御影堂奥殿のある場所において御誕生あそばされました」と書いていますが、小生が居たころは、善通寺と香色山のふもとの駐車場・・・そのころは小山がある公園でしたが・・・そのあいだを流れる川の河畔に「弘法大師御誕生の地」という標木が建っていた記憶があるのですが・・・。


 お大師さんの御誕生会はちょうど梅雨時です。
 雨のなかを友だちと大師市に出かけた記憶があります。
 そうそう、よく母のために植木市で珍しい花を買ってきて、庭に植えたことを思い出しました。母が喜んでくれるのが楽しみでした、ヤンチャでしたが優しいところもあったようです^L^

 高校時代の同級生のなかに、お父さんが善通寺の近くで易者をしている友だちが居ました・・・そのころは自分が易占するようになるなんて考えもしませんでした(笑)

◆きょうは“口きかん先生”でなくて菊池寛先生の『十住心論』のなかの「弘法大師の生涯」の最初のところ・「伝奇の雲」と「天稟と環境」の一部を紹介いたします。:
◆奇蹟の雲

 「はしがき」でも云ったように、弘法大師は奇蹟の親玉で、伝説の雲煙につつまれ、その実在の全貌が容易に見定めがない。この点でも、他の諸大師、諸高僧と比べて、特〔ひと〕りずばぬけて居る。

 名詮自称〔めいせんじしょう〕、空海という本名の二字が、さながらに、謂うところのお大師様を象徴しているようにも思える。

 大空に漂う雲海、そこに一輸の明月が、王座を占めたように輝いているとする。円満な朗鏡の姿が、やがてちぎれ飛ぶ色々の雲の中に出たり入ったりする。その光景は実に千様万態で、どれが本当の月の姿だか定めがない。じっと眺めている人には、ただ神秘そのもののように感じられる。伝説、奇蹟の雲煙につつまれた弘法大師の生涯が、ちょうどこの雲月を見るような気がするのではなかろうか。どこまでが歴史的事実で、どこまでが伝奇物語だか、到底見分けがたい事蹟〔じせき〕で、その生涯が塗りこめられている。これを一々巌正な学問的研究を以て、事実の考証をするとなると、甚だ疑わしいものが、ずいぶん多くあるだろう。しかし、それも必要なことではあろうが、今はそれを目的とするのではなく、むしろ、そんなことは愚なこととして、たとへ伝説の不確実なる資料でも、それを透して、その底に流るる弘法大師の生命に触れようとする態度をとりたいと思ふ。

 神秘的な天空海月〔てんくうかいげつ〕の光景に対して、天文学や物理学から、月と雲の関係を説明しようというのでなく、大空の悠大、雲月の美観をそのまま全貌として直観しようというのだ。天心に一個の朗鏡を懸けた月そのものも美しいが、それがいろいろに彩られた雲の中に、かくれたり出たりするところに、月の姿が一層の美観を添える。史実の弘法大師だけでも、大宗教家、大芸術家、大教育家、あらゆる方面から見て、円満偉大なる人格が偲ばれるのであるが、それが数々の神秘的伝説の雲煙につつまれて、一層雄渾なる「御大師様」が仰がれるのである。

 ここに弘法大師の生涯を叙するに当り、なるべく據〔よ〕るべき史実を中心とはするが、時には語り伝えられた伝説の色彩も、かなり織り込まれであることを断っておく。


◆二、天稟と環境

 弘法大師は、奈良朝の末期、光仁天皇の寶亀五年〔774年〕六月十五日、讃岐國〔さぬきのくに〕多度郡〔たどごおり〕屏風浦〔びょうぶがうら〕に呱々〔ここ〕の声をあげた。(一説に善通寺【易爺:ここは海岸寺ではないか?】ともいう。思うに、その生家の本邸が善通寺にあり、【易爺:瀬戸内海を臨む海岸寺の】風光明媚〔ふうこうめいび〕の海岸、屏風浦に別症があって、母がお産のためにその別荘に居たのではあるまいか) 父を佐伯直田公〔さえきのあたいたきみ〕といい、母は阿刀氏〔あとうし〕の出で玉依御前〔たまよりごぜん〕、共に名族である。

 佐伯氏〔さえきし〕は所謂・神別に属し、曩祖〔のうそ=先祖・祖先〕は天忍日命〔あめのおしひのみこと〕で、その玄孫〔=やしゃご〕が神武天皇建國創業の功臣として知られた道臣命〔みちをみのみこと〕であるが、その後裔・大伴大連室屋〔おおとものおおむらじ・むろや〕が佐伯氏の祖先である。
室屋の孫、倭故連〔わこのむらじ〕が、允恭天皇のとき讃岐の國造〔くにのみやつこ〕に任ぜられ、後、子孫がその職を襲〔つ〕いで大化の新政に至り、國造の名は廃せられたが、、その後も依然名族として地方に重きをなしていた。大師の父田公の従兄弟なる佐伯今毛人〔いまけと〕は、前に東大寺造営を督して功あり、大師誕生の翌年、寶亀六年六年には遣唐大使に任ぜられ、疾によって命を果さなかったが、後の中納言〔ちゅうなごん〕大伴家持〔おおとものやかもち〕と並んで中央政界に立ち、また同じく田公の従兄弟で、佐伯宿禰〔すくね〕麻毛利〔まもり〕も、正四位下大蔵卿〔おおくらきょう〕にまで昇進して居り、その他佐伯酒麿〔さかまろ〕、同豊雄〔とよを〕、同眞持等も、相前後して官途に就き、それぞれ相当の地位を占めた。かように、佐伯の一門は、その伝統と門葉とを以て世に知られた名族であった。更に大師の外身、阿刀大足〔あとのおおたり〕は、桓武天皇の皇子・伊豫〔いよ〕親王に仕え、儒学を以て当時に一家を成した人である。


 弘法大師は、こうした名族の中に生れた天才児だった。世の高僧伝に、殆どつきもののように語られる出生の奇瑞が、大師にも伝へられている。母の玉依御前〔たまおよりごぜん〕が、天竺の聖僧が来て宿を假〔=か・仮〕るという夢告によって懐胎〔かいたい〕し、十二ヶ月にして大師を生んだというのだ。そしてその誕生の刹那〔せつな〕に、紫雲〔しうん〕たなびき異香ただようたということや、唐から鑑真和尚〔かんじんをしょう〕と同船で来朝した法進上人〔ほうじんしょうにん〕が、屏風浦に巡錫〔じゅんしゃく〕して赤ん坊の泣き声を耳にし「この児は凡流にあらず、他日まさに大法を弘むべし、善くこれを育てよ」と告げたということや、大師が七歳のとき、自ら衆生化益〔しゅじょうけやく=庶民を救済すること〕の大任が果せるか、どうかを試めそうとして、捨身〔すてみ〕ヶ嶽〔たけ〕の巖頭〔がんとう〕から身を投じたところが、天人が宙に受け止め、釈迦如来が姿を示して大願成就〔たいがんじょうじゅを保証されたということや、まだ幼童で戯遊している大師の背後には常に四天王が白蓋〔はくがい=白い天蓋〕をささげて守護していた。それを朝廷から民間視察に派遣されて来た使節が見て、恭しく跪拝〔きはい〕したということなど、ありがたそうな伝説が、枚挙に遑〔いとま〕ないほどある。これらはただ伝説に過ぎないと見るも、弘法大師が、生れながらにして非凡の児であり、その天稟と環境とは、年少のときよりおのづから群品を抜くものがあった。殊に佛縁の深かったことが注意を惹く。
 ・・・以上 菊池寛著『十住心論』より・・・

    ×  ×  ×

 ここからお話しは面白くなるのですが、きょうはここまで^L^
 どうです、日中合作の映画より遙に面白いでしょう^L^・・・最近、日本の歴史や伝統文化を貶めるような映画やドラマが多いのには易爺は辟易しています。

画像


亡き母に花を贈らん誕生会  青柹郎

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
◆6月15日は空海の誕生日・・・『十住心論』より takusankanの周易占いノート/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる