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help リーダーに追加 RSS 今日12月16日は、近衛文麿が亡くなった日です。

<<   作成日時 : 2008/12/16 10:43   >>

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今日は、近衛文麿が亡くなった日です。
1945年〔S20〕12月16日は、
巣鴨拘置所へ出頭せよ、と命令されていた日でした。
近衛氏は この日の未明に青酸カリで服毒自殺をしました。
満54歳でした。
画像


上図は、
『民報』S20年〔1945年〕12月19日号に掲載された
近藤日出造の
「近衛さんは天国へ急ぎ、われ等は生きて地獄へ」
というタイトルの風刺画です。

生前の近衛氏は、よく嘆いていたそうです:
「戦争前は軟弱だと侮られ、
戦争中は平和運動家だとののしられ、
戦争が終われば戦争犯罪人と指弾される」

■ 近衛文麿氏は、藤原家の血を引く近衛家の当主です。

1937年6月4日から太平洋戦争が始まる直前の
1941年10月18日のまで内閣総理大臣だった人です。

1904〔M37〕父・篤麿が41歳の若さで死去。
       12歳で近衛家の当主になり、父の残した多額の借金を相続。

華族の近衛家の子息としては異例と思えることがあります。

それは、学習院中等科を終了後、高等科へは進まず、
旧制一高の校長の新渡戸稲造に感化され一高を受験し進学したこと。

さらに東大の哲学へ、途中、京大の法学部に転学。
京大在学中に、オスカーワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、
『社会主義論』として発表し、発禁処分を受ける。

1916年〔T5〕25歳、貴族院議員になる。
1918年〔T7〕『日本及日本人』に「英米本位の平和主義を排す」を発表。
1919年〔T8〕パリ講和会議に全権・西園寺公望の秘書として随行。
1933年〔S8〕貴族院議長に就任。
1936年〔S11〕岡田啓介首相の後継として大命降下、健康問題を理由に辞退。
      陸軍皇道派の勢力が相沢事件や226事件で失墜していたから?
1937年〔S12〕6月4日 第一次近衛内閣、元老・西園寺の推薦で組閣。
      7月7日盧溝橋事件、日中戦争の勃発
      7月11日現地の松井久太郎大佐と秦徳純とのあいだで停戦協定を締結。
      しかし、内地の三個師団を派遣する『北支派兵声明』を発表。
      7月17日1000万円の予備費支出を閣議決定
      7月26日陸軍の要求もないのに9700万円の第一次北支事変予算案を閣議決定。
      7月31日4億円の第二次北支事変予算案を追加。
      10月 企画院の設置、戦争が終わるまで国家総動員体制の中枢となる機関です
1938年〔S13〕
   国家総動員法の成立。
   国家総動員法とは、国会の承認なしで人・物・金を動員できる法律。
   民政党の斎藤隆夫議員らは「天皇大権を侵す憲法違反の法案であり、
   ナチスと同じやり方ではないか」と政府を激しく追及したが、法案は無修正で可決。

   ☆近衛は、日本をナチス・ドイツのような国家社会主義の国にしようと考えていた。
    天皇をいただく社会主義国家を作ろうとしていたのかも知れません。

1940年〔S15〕7月22日 第二次近衛内閣
   政府支出に占める軍事費の割合は40%、
   他方、この年から米は配給制度となる。その後他の生活必需品も配給となる。


1941年〔S16〕8月18日 第三次近衛内閣
    10月18日内閣総辞職

☆開戦後は、終戦工作へ動く☆

1941年〔S16〕12月8日の太平洋戦争開始後は、
軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近する。

1942年〔S17〕のシンガポール占領とミッドウェー海戦の大敗。
これを好期と見た吉田は、近衞をスイスに派遣し、
英米との交渉を行うことを持ちかけ、
近衞も乗り気になったため、
この案を木戸幸一が握り潰してしまった。
近衞に注意すべきとの東条の意向に従ったものと言われている。

1943年〔S18〕から、近衞らは、やがて「近衛上奏文」につながる
軍部赤化論や共産革命脅威論を唱え始める。

これ以降 近衞は、彼らグループの中心として、
親ソ的な現在の陸軍首脳部を追うことで終戦を目指すようになる。

1944年〔S19〕7月9日 サイパン島陥落。
これを機に、東条内閣に対する退陣要求が強まった。

「このまま東条に政権を担当させておくほうが良い。
戦局は、誰に代わっても好転することはないのだから、
最後まで全責任を負わせるようにしたらよい」
と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくするよう考えていた。

1945年〔S20〕2月14日に、近衞は昭和天皇に対して、
早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上、
しかし、昭和天皇に却下された。

戦局が悪化するにつれ、近衞は独自の終戦工作を展開した。
それは、スイス、スウェーデン、バチカンなどの中立国を仲介とするものではなく、
ソ連による和平仲介だった。
しかし、近衞のモスクワ派遣は、スターリンに事実上拒否された。

近衞の交渉案は、全ての海外の領土、琉球諸島、小笠原諸島、北千島を放棄し、
労働力として日本軍将兵を提供するものだった。

■山田風太朗氏の『人間臨終図巻 上』には、
自殺する直前の状況を次のように書いています:

近衛文麿1891.10.12−1945.12.16

 昭和二十年十月四日、近衛はマッカーサー元帥を訪問し、
マッカーサーから、これからの日本の指導の陣頭に立たれよ
という激励を受けて、戦犯容疑から解放されたものと早合点して
愁眉をひらき、元気づけられた。
 彼は早速新憲法制定のために働き出した。
 しかるに十一月一日になって、
突如GHQは「近衛は何か誤解している。
総司令部は近衛に憲法改正を勧めたおぼえはない」
という声明を発した。
このマッカーサーの豹変は、近衛は戦争責任を免れない、
とするアメリカと日本の新聞の論調によるものであった。

 茫然たる近衛に第二の打撃が加えられた。
十一月九日、東京湾のアメリカ砲艦に連行されて、
「合衆国戦略爆撃調査団」によって峻烈きわまる訊問を受けたことであった。

 近衛は公爵を拝辞し、
十一月二十七日、軽井沢の別荘にいった。
十二月六日、GHQから彼に逮捕指令が発サられた。
十二月十六日に巣鴨拘置所へ出頭せよ、というのであった。

十二月十一日、近衛は軽井沢から東京世田谷の知人長尾欽弥邸に入り、
側近に、
「国際法から見て勝利国が敗戦国の個人を裁判にかけることの是非の調査」
を命じたり、また出頭延期の可能性を打診させたりしたが、
いずれにしてもこの期に及んで抵抗は不可能との報告を受けた。
元官房長官の富田健治は
「あんなに悄然とした近衛公を見たことがない」と、いった。

十四日夕、近所は自邸の荻外荘に帰った。

出頭指令を明日にひかえた十五日夜、
彼は居間で友人の山本有三と後藤隆之肋と話し行った。
彼は、裁判は拒否するつもりだといい、
山本が「あなたは最悪のことを考えていられるのではないか」
と訊いたのに対し、「いいえ」と首を横にふった。

客が去った十一時ごろ、
近衛は寝室に、次男通隆に紙と鉛筆を持って来させ、いまの心境を書き出した。
それは戦争犯罪人として裁判を受けることは無念である、と述べ、
かつまた、自分の真の志は時を経た後、神の法廷によって判決が下されよう、
というものであった。

 午前二時ごろ、通隆は、用があったら呼んで下さい、
といって隣室にしりぞいた。
 通隆は、十六日の午前六時ごろ、父が床中で息絶えているのを発見した。
枕もとに青酸カリの小瓶がころがっていた。

 が、東京裁判で弁護人をやった島内竜起は、
「近衛の一高時代以来の友人で、
前夜東条の自殺失敗のような見苫しいまねはしてくれるなといい、
死の隣室から一時間毎に声をかけて、
彼の応答を確かめていた者がいたとも伝えられる」という。

◇司馬遼太郎先生を真似た訳ではないのですが、
小生も、昭和の歴史、特に戦争の歴史を振り返ることを避けてきました。
だんだんキナ臭くなって来ているので、
これからは本格的に調べてみようかと考慮中です。




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